東福寺塔頭勝林寺
東福寺駅に到着したのは既に15:45を過ぎた頃。今回の特別公開は16:00までなので、あと一件拝観するだけで終わりだろう。
東福寺では、塔頭勝林寺、退耕庵を拝観するつもりだったが、今回は退耕庵を諦めよう。ここは申し込めばいつでも拝観できるので、今回無理に拝観しなくてもよい。
勝林寺は北方の守護を担う毘沙門天を本尊とし、それにちなみ東福寺境内の北に位置する。少し判りにくい場所にあったが、拝観終了前に入ることができた。
勝林寺本堂の見取り図。かなり適当だ。 堂宇としてはかなりシンプルな構造になっているが、中央に位置するのはあくまで前立としての毘沙門天であり、堂宇奥に接続している廟のような構造の部分に、本体である毘沙門天が安置されているという、ユニークな構造。 |
前立の背後に壁があり、奥にある廟のような部分を隠している。前立の背後に回ったとき、初めて廟の部分の存在が判るといういやらしいつくり。 堂宇中央部の天井は格天井となっていた。 |
入堂してすぐ左右にある襖には、それぞれ虎が描かれている。毘沙門天は寅の守り本尊であるから、その暗示であることは間違いないが、左手は二頭、右手は一頭で非対称だ。一頭の虎は毘沙門天を、二頭の虎は妻の吉祥天と子の善膩師童子をそれぞれ暗示しているという。
なお、二頭の虎が描かれた襖の反対側には、カモを描いた障壁画があった。どのカモも同じ方向、左上を見詰めているのが面白いが、元々は障壁画ではなく、もともとは左上の部分に何か描かれていたが、障壁画に仕立て直す際に、サイズの関係上で切り取ってしまったのかもしれない。
さて、凸型をしている堂宇の「肩」の部分には、堂を失って行き場を無くしたであろう仏像が安置されていた。「左肩」には文殊菩薩と地蔵菩薩。このカップリングは意味が無く、やはり寄せ集め的な印象を受ける。文殊菩薩は左手に経典、右手に剣を備えている。
「右肩」には大日如来を中心として、両脇に四天王のうち二体が安置されていた。この組み合わせには、ある程度の意味を見いだせるかもしれない。
さて、奥の開帳された厨子を。厨子は三つの扉を備えているが、内部は繋がっている。中央には本尊である毘沙門天、その右手に吉祥天、左手に善膩師童子が安置されている。 厨子の上部の掛け仏には、梵字でベイ(毘沙門天)、シリ(吉祥天)、キャ(善膩師童子)が彫られており、毘沙門天一家を暗示している。 |
毘沙門天は左手で宝塔、右手で三叉戟を持つ典型的なスタイルだが、こっそり右足で赤い邪鬼、左足で青い邪鬼を踏んでいる点は兜跋毘沙門天に通じるものがある。
左写真は凸型の飛び出している部分。この内部に本尊である毘沙門天が安置されている。
ちょっとした庭園になっていて、梅がひっそりと咲いていた。 梅というのは、桜と同じように葉が付く前に花を咲かせる木なのに、桜の場合と違い、見ていて寒々しい印象を持ってしまう。枝や幹の形に侘びしさを感じるからだろうか。 |
田村月蕉が彫ったという毘沙門天曼荼羅(版画)。初めて存在を知った。非常に沢山の像が描かれており、それぞれが何かを知りたいのでレプリカは無いかと係員に訊くと、展示されているものとは別に、売店で売られているという。 売店に直行して訊いてみれば、一つ2000円だという…。高すぎるので諦めた。 妖怪のようなものも混じっているが、おそらく毘沙門天が束ねる夜叉の類だろう。 中尊である毘沙門天の足下にはニランバー、ヴィランバー、地天女がおり、兜跋毘沙門天であることが判る。左右には吉祥天と善膩師童子が控えるが、その四隅にも童子が四人。一説に拠れば毘沙門天には五人の息子が居るとか。 その一つ外の枠内には10体描かれているが、下の二体はそれぞれ龍王と韋駄天という。その他の8体は八大夜叉大将だとか。 |
一番外側の枠内には28体描かれているが、二十八使者だという。二十八使者と言えば、同じ毘沙門天を本尊とする信貴山で木像を見た。そこでは、年に一度二十八使者の扮装をした人たちが練り供養するイベントがあるという。ただし、二十八使者の構成員について詳しいことは判らず。
他に円山応挙の描いた『七難七福図』が展示されていた。火の描写がすさまじい。同じモチーフで同じく応挙が描いたものを大津の円満院でも見た。
勝林寺の寺務員はどれも同じ法被を着ていたが、その背中には、毘沙門天の文字を二匹のムカデが丸く囲むマークが。 毘沙門天の眷属には、虎以外にムカデもいる。ムカデは山師の言葉で「鉱脈」を意味するが、これは毘沙門天の金属神としての側面を暗示したものである。 |