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北陸の庭園めぐり 2009年9月25〜28日

妙立寺

みょうりゅうじ

石川県金沢市野町1-2-12

金沢駅東口から北鉄バス「広小路」バス停下車徒歩2分

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妙立寺

にし茶屋街を出て、野町1丁目から広がる寺町寺院群へ向かう。70近くの寺が建ち並ぶが、寺を密集させるのは城下町によく見られること。加賀藩による一向一揆対策の結果らしい。

今回向かうのは、別名「忍者寺」と呼ばれる妙立寺。日蓮宗の寺院で、前田利家による藩守護のための祈願所が起源。三代の利常により現在の地へと移築され、幕府への欺くために要塞としての機能を期待して建立された。

当時、幕府の命令により三階以上の建築物の建立は禁止されていた。外観こそ二階建てだが、内部は四階になっている。部屋数は23、階段数は実に29あるという。その上、隠し階段、隠し部屋、落とし穴、見張り台などの機能もある。実際に忍者が居たわけではないが、その複雑で敵を惑わすような構造から「忍者寺」と呼ばれる。

ただ、「幕府を欺くために」というが、実際に欺いてしまったら終わりだし、さらに「敵を惑わす」といっても、江戸時代における「敵」って一体誰だ? という疑問がある。勝手な推測だが、金に物を言わせて奇抜・奇怪・奇想の建築を実現させた、藩主の道楽的な側面もあるのではないかと思う。

私自身、前田家や幕府がどうのこうのよりも、実際にこんなに奇抜な建築が実在するということ、そしてそれを実際に内部に入って見学できることに喜びを見いだしている。現代人ですら驚嘆するばかりなのだから、当時としてもやっぱり驚嘆に値するような建築物だったと思う。

寺めぐりを始めた最初の旅でも訪れた思い出深い寺で、今回で二回目の拝観となる。

今回は、正門からではなく、勝手口のようなところから境内に入ってみた。

拝観予約時間は11時。あと少しなので境内で待つ。おそらく同じ時間で予約したであろう他の客も境内で待機していた。

しばらく境内を見て時間を潰す。境内にはいかにもな経蔵(輪蔵かどうかは不明)や苔で覆われた庫裏前庭園(?)などもあった。

ぼちぼち拝観開始となった。名前を呼ばれて本堂へと入っていく。左写真は本堂。右写真は本堂の向かって左に付随する庫裏。本堂内部よりも庫裏の内部構造が凄い。

自由に拝観するのではなく、複数人に対し一人のガイドが付いて説明しながら回るという形式を採る。というのも、仕掛けが凄すぎて迷って出られなくなるのを防ぐためだ。それくらい内部の構造が複雑だ。実際、引率されて説明を受けていても、その仕掛けにとまどうことがある。一回当たりの拝観時間はだいたい40分。小部屋が多く全員で回ることは不可能なため、何グループかに別れ、コースを変えて回ることになる。

今回二回目の訪問ということで、たんねんにノートにメモして各層の構造を把握し図示した。それでも怪しい部分はあるが…。相変わらず縮尺はいい加減。また訪問から既に半年以上が経ち、記憶も薄れているため、あやふやな部分・矛盾のある部分もある。概要を理解するには助けになるが、正しい図ではないのでご了承いただきたい。

なお、上の画像をクリックすると別ウィンドウで表示されるので、下の解説文と一緒に閲覧できるようにしてある。

まず説明を受けたのは「仕掛け賽銭箱」(図中「写真1」)。ここは賽銭箱の口が床と同じ高さにある(つまり床に埋め込まれている)。有事の際には、ふたを外すことで「落とし穴」として機能するのだという。

まずは本堂の解説を受けた。本堂内部南東側の天井には、天袋の親分のような中二階のフロアが設置されている。内部は八畳間になっており、中央には大きな座布団が置かれているという。殿様が法要時に利用する部屋とのこと。

身分意識の強い時代、庶民と殿様が同時に一緒の空間に存在することを避けるため、このような部屋を設けていたという。庶民は殿様の存在に気づくことなく法要に参加していた、ということなのだろう。

西側には八枚の障子があるが、飾りであって開くことはないという。腰板には絵が描かれている。北西側には四枚の小窓がある。こちらも開くことはないが、格子窓になっており、隙間から殿様が法要の様子を伺ったのだとか。これでは、隔離されているのは殿様のほうになってしまっている。

殿様用の中二階フロアへの連絡通路(キャットウォーク)は本堂の東側を通っており、北東部にある階段を使ってアクセスする。これは釣り階段であり、平時は上げられ隠されるという。なお、殿様用フロアなどは公開されていない。フロアはつっかえ棒などで支えられてはいないため、おそらく重量制限ではないかと考えられる。

その殿様の護衛に際しては、本堂北東部にある武者隠し襖の中の侍が担っていた。これは特殊な襖で、外からは中の様子が伺えないが、中からはよく見えるようになっている。

本堂東側エリアの天井には、籠が二つ吊されていた。また、東側エリアの北面には、日蓮宗らしく三十番神の掛け軸があった。

本堂の説明が終わり、いよいよ迷宮へと入る。実をいえば、人を惑わす仕組みのほとんどは本堂ではなく、西側に附属する庫裏に集中している。本堂の西側へと移動。

図中写真2の場所。階段が三つ並んでおり、左から右へA、B、Cと付けた。AとCが上り階段、Bが下り階段。なお、図中では上り階段を赤で示し、下り階段を青で示している(基本的に、基準は今居るフロアから見て)。まずはB階段で下りる。

B階段で下りると、そこは地下1階。地下とはいっても、地面の下という訳ではなく、本堂の軒下のフロアで、要するに地面と同じ高さであり、通常我々が使う「1階」と同じ(本堂へは階段を使って「上る」ため、地面より一段高い場所になる)。

地下1階の様子(図中写真3)。北側を向いたところ。ここもやたらと階段が多いが、ここから先への見学はできない。公開されているのは、一部でしかない。図中灰色で示しているのは見学が許可されていない部分。

梁には大木を使っており、雪の重みに負けない造りになっている。

さて、やってきた階段でまた1階へ戻る。

階段Cの解説。階段Cは、普段手前の部分に板が載っているが、これを外すと隠し階段が現れる(図中写真5)。敵が侵入してきた際には板を外して落とし穴にするのだというが、この隠し階段の行き先は現段階では説明されない。

今度はA階段を使って、一度中階のようなフロアに上る。すぐ右手に上り階段があるが、今はこれを無視して左に曲がり、南方向へと進んで位牌前の下り階段で再び地下1階へと下る。

階段を下りて左手に小部屋がある。襖が少し開いているが、内部は下男の部屋だという。光の差さない部屋だが、この部屋には上り階段が一つあり、この階段こそが、先ほど説明されなかった隠し階段である。つまり、敵がこの隠し階段に落ちると、下で待ちかまえている下男に斬られる、という寸法らしい。

左写真は写真4。「明かり取り階段」と呼ばれる。外からの光が漏れるような構造になっている。右写真はそれを外から撮ったもの。これは庫裏の玄関へ上がる階段だ。

南西へと突き出ている通路があるが、この戸の先は外に通じている。

さて、階段を上り1階へと戻る。先ほど無視していた、A階段の先の階段を上る。先には中二階のフロアで、かなり狭い部屋となっている。この部屋には上り階段があるが、普段は隠されている。というのは、上ってきた時に襖を開けてこの部屋に入るのだが、その襖のせいで、すぐ隣にある上り階段への入り口をふさぐ仕組みになっているからだ。つまり、さらに上に上るには、一度開けた襖をもう一度閉めなければ上り階段へとアクセスできない仕組みになっている。

その階段を上ると二階。茶室になっており、床の間などがある。割と広い部屋ではあるが、天井が低い。これは、刀を振ることができないようにするため。ただし、天井が弓なりに、つまりドーム状に中央がふくらんでいるため、狭い部屋を少しでも広く見せるための工夫がなされている。

違い棚のある部分は、満月を模したかのような窓になっており、その中に違い棚が設けられている。壁には富士山やおぼろ雲などが描かれている。

なお、この茶室から、庫裏の中央に据えられた井戸から直接水をくみ上げることができたという。

すぐ南の部屋に移動することはできるが、一度茶室の南東にある上り階段を上り、三階へ。もう上り階段はない。

三階から東側を覗くと、本堂のてっぺんに設けられた物見台・望楼が見える。現在はガラスが嵌められているが、当時はギヤマン張りであり、文字通り外敵の侵入の見張り台として機能していたという。

さて、三階から二階へと戻り、襖を開けて南側の部屋に移り、下り階段を下りる。下りた先は、井戸のすぐ南側(図中西を向いた青矢印)。襖をあけて出ると畳の間。北側の襖を開けた先の間はまた茶室になっている。ここも床の間や違い棚が据えられた茶室になっている。

茶室からは太鼓橋(図中写真8)を通った。先はA、B、C階段のあるスペースだった。こうして再び本堂に戻ってきた。

今度は須弥壇の後ろへと回る。ここにも隠し階段がある。戸を開けると階段を隠している板を取り外すことができるようになる。再び板を嵌めて戸を閉めるとロック状態となる。この隠し階段の先は公開されなかったが、おそらく本堂の軒下のスペースへと抜けるのだと思う。ちなみに裏本尊があった。

これにて見学は終了。二回目にしてようやく大まかに造りを把握することができたが、完璧ではない。次回見学する機会があったら、今回作った図を持って見学し、修正を加えようと思う。

妙立寺を出る。

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