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越南順化巡覧 2012年7月5~8日

グエン朝王宮(太和殿,紫禁城跡)

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グエン朝王宮(太和殿,紫禁城跡)

さて,ようやく正門である午門に到着した。バスを降りてから30分近く経っている。いろいろと寄り道をしたぶんも入っているが,迎えのバスが来る13:30の30分前,13時には王宮を出ることにする。現在11時。ということは2時間で見ないと…。

2年前の報告とカブる部分があるが,煩を厭わず書いていきたい。

午門は凹字になっており,闕台の上に,正楼とその左右に二つの翼楼が乗っている。これらの楼を五鳳楼と呼ぶ。2年前はフエ祭りの開催直前だったため,午門の正楼中心にホーチミンの肖像画が掲げられていた。

午門には五つの門がある。向かって左手の翼楼の下部闕台部分には右闕門(右腋門)があり,右手の翼楼の下部闕台部分には左闕門(左腋門)がある。兵士,象や馬が通る門になっており,これらが最も外側の門になる。象が出入りできるほど広かったか疑問である…。なお,左右がちぐはぐになっているが,皇帝は南面するということで,北に鎮座する皇帝から見て右,左,というわけである。ちなみに右闕門(右腋門)が見学者の出口になっている。

中央の正楼の下部闕台部分に三つの門があり,中央は皇帝と外国の使臣(その国の主権者の名代ということで皇帝と対等とする)が通る午門,その左が武官が通る右夾門,右が文官が通る左夾門。なお,見学者は右夾門から入る。チケットは一人80,000ドン。

午門を抜けると三関の坊門があり,その先に太掖池がある。そこに架かる中道橋を渡ると太和殿の前庭に行き着く。左写真は前庭から午門を振り返ったところ。

太和殿の前庭は全部で三段になっており,太和殿に近い一段目には一位から三位までの官吏が,二段目には四位から九位までの官吏が並び,三段目はフエの村の土候が並んだ。それぞれの立ち位置を示す石が前庭の左右に並んでいる。

一番太和殿に近い石には「正一品」と刻まれている。


前庭の左右には麒麟が対になって立っている。この辺りの石畳はバッチャン焼きである。

手すりにはグエン朝ならではの装飾が。陶器がはめ込まれている。そういえばホテルでもこういう意匠を階段に取り入れていた。

太和殿の内部。中央奥には玉座がある。もちろん皇帝が座ったところだが,その背後に扉があり,そこから皇帝が出入りしたという。

太和殿の右手のほうに象のかたちに刈り取った植木が。

太和殿軒下の柱には龍が彫られている。

太和殿の裏側。

太和殿を抜けたところ。この先が紫禁城。先にある小さな台になっている部分には,かつて大宮門があり,現在復元されている左右の回廊と繋がっていた。今は巨大な金印のレプリカが置いてある。

太和殿を抜けたところで左右を見ると,坊門がそれぞれに立っている。

大宮門があったところで北を向く。先の一段高くなっているところに勤政殿があった。

右手の左廡。文官が控える場所。

左手の右廡。武官が控える場所。右廡も左廡も回廊と繋がっている。

紫禁城で現存しているのは,勤政殿の真後ろに控えていたこの屏風だけ。ただ,テト攻勢の際に被弾している。

屏風の右手側に連結された回廊。去年はここまで復元されていなかった。この先も復元が進んでおり,当初は紫禁城はあまり巡る必要はないと思っていたが,見学しなおす必要が出てきた。なお,回廊を東側に直進したところにかつて文明殿があったが,現存せず,復元もされていない。

屏風の左手側。この先に武顕殿があったが,文明殿同様に現存せず,復元もされていない。文明殿と武顕殿,それぞれの名前はやはり文官と武官がそれぞれ左右に分かれていたことに由来していることを示している。

屏風を抜けたところ。先の二段目にかつて乾成殿が建っていた。

屏風の真後ろにはかつて箱庭があったのではと思わせるスペースがあった。

勤政殿と乾成殿の間から東を向いたところ。今は回廊しか復元されていないが,その奥にはかつて光明殿があった。

今度は西を向いたところ。回廊の奥にはかつて貞明殿があった。

回廊の内部。日陰になるので,休憩スペースになっていた。

乾成殿があったところには案内板が設置されている。乾成殿の先は坤泰殿前庭だった。

ここはかつて坤泰殿があったところ。

坤泰殿の先。庭のように整備されている。中央には鼎のようなものが。2年前にはこんなに綺麗じゃなかったと思う。

四方に亀の形に刈られた植木が。

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