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越南順化巡覧 2012年7月5~8日

謙陵

Khiêm lăng/Lăng Tự đức/

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謙陵

10:45,トゥドゥック帝廟到着。帝廟前は人であふれかえっていた。フエ観光のハイライトだからいつもこんな感じなのだろう。観光バスが二台並列して道をふさいでしまっていた。たぶんベトナム人のツアーだと思う。チケット売り場も混雑していたが,なんとか金を支払って入場した。ここも一人80,000ドン(306円)。

【注】
ミンマン帝廟と同様,2016年の時点では10万ドン(500円)にまで値上げされている。

トゥドゥック帝廟Lăng Tự Đứcは,廟号を翼宗Dực Tông,憲祖翼宗世天亨運至誠達孝體健敦仁謙恭明略睿文英皇帝Thể thiên Hanh vận Chí thành Đạt hiếu Thể kiện Đôn nhân Khiêm cung Minh lược Duệ văn Anh hoàng đếと諡号されたグエン朝四代皇帝嗣徳帝Hoàng đế Tự Đức(阮福蒔Nguyễn Phúc Thì,1847-1883)の陵墓であり,正式名を謙陵Khiêm lăngという。

トゥドゥック帝廟の図。帝廟内にはトゥドゥック帝の陵・寝以外にも,他の宗室・皇帝の陵墓が存在する。今回はその全てを見学するつもりでいる。かなり暑い時間に入ったが,ここが午前中最後のふんばりどころだ。

これが入り口の務謙門。

務謙門の外には屏風があるが,その背後にはおきまりの土産屋。屏風の表側は土産屋に突入しなければ確認できない。

2年前に来た時よりもハスの数が増えているような…。2年前は5月だったのでハスの花の季節ではなかったが,今回は7月だからか,花を付けていた。ただ,もう昼近くなっているからか,花はほとんどすぼんでいる。

池の名は流謙湖で,手前の島は謙島という。島の上には雅謙亭・楽謙亭・標謙亭の三つが建っていたとのことだが現存しない。ただ,写真のように基壇部分は残っているようだ。チュンさんによると,流謙湖にははじめは水が入っていなかったという。

陵に入ったところで出会ったベトナム人とチュンさんがいきなり話を始めた。おそらく同僚かと思われる。

寝部分の右下部分の階段を上がったところ。誰も訪れない場所だ。門は閉じられているが,木の扉には穴が開いていたため,この門の奥を観ることができた…,写真を撮っていない。ここにはかつて持謙院と依謙院という,トゥドゥック帝のたくさんの妃のための建物が建っていたが,今は基壇と壁しか残っていない。

閉じられた門の右手には階段があり,その先に寝内部に通じる小さな入り口が設置されてあったが,その扉も閉じられていた。

その左手に門がある。no visitingとあるが,チュンさんは「まぁ,ぱっと入って写真を撮ってすぐに出れば大丈夫じゃないですか?」と言った。話の分かるヤツだ。

その門の中をのぞく。至謙堂といい,宮妃を祀る殿宇。さすがにこれ以上中に入るのは躊躇われたので内部は入っていない。

寝の入り口に向かって進む。流謙湖の向かいには冲謙榭が建っている。トゥドゥック帝が休憩所として使っていた建造物。なお,トゥドゥック帝は自身で陵を造営しており,生前に完成してしまっている。そのため,トゥドゥック帝はこの陵を離宮として活用していた。王宮との間にはフォーン河があり,今でこそ橋が架かってはいるが,当時は船で渡らねばならなかったため,移動には大変な手間がかかったことだろう。

寝の入り口。正面に見える門は謙宮門。門の手前の段には,かつて左手に恭謙,右手に公謙という殿宇があったらしいが,現存しない。なおこの広場では,謙宮門を背に三人のベトナムギャルズがきゃっきゃと記念撮影をしていた。合図をしてジャンプした瞬間を撮って欲しいようだった。フエでは珍しいショートパンツの洗練された女の子たちで,肌がかなり白かった。おそらくハノイかホーチミンあたりから来ているのだろう。

中央の他,左右からでも階段で上がることができる。

謙宮門から振り返ったところ。正面に見えるのは愈謙榭で,ここから流謙湖に船を出したらしい。

寝の中心には四つの殿宇が中庭を囲んでいる四合院式に並んでおり,回廊で接続されているが,その手前の殿宇がこの和謙殿。二つの棟を連結しており,トゥドゥック帝と皇后の位牌を祀っている。

謙宮門と和謙殿の間には鼎が置かれていた。写真は和謙殿から謙宮門側を振り返ったところ。この広場の左右には,右手に法謙廡,左手に礼謙廡が配されていたが,現存しない。

屋根には立派な装飾が施されている。

和謙殿の階段には龍が。これまでの階段には龍はあしらわれていない。もともとはあったものの,現存していないだけかもしれない。

和謙殿の内部。

トゥドゥック帝が読んだ詩が金泥で書かれており,チュンさんによると絵の方は中国のほうで仕上げたらしい。

和謙殿から左手の方(真南。トゥドゥック帝廟は東を正面としている)を見たところ。右手に見えるのは,四合院式に並んだ殿宇のうち,和謙殿向かって左に配される温謙堂。離宮として機能していた頃は皇帝の衣装を保管する殿宇だった。手前には井戸の遺構があった。

左手には小さな屏風と門が見える。この先は和謙殿前の広場である。

温謙堂側から和謙殿を見たところ。

温謙堂の右手に出てみた。西向きの写真。二段の広場になっている。奥に通路があるが,バリケードが設置され,進入を歓迎していない。奥の壁の先は四合院式に並んだ殿宇エリアの先のエリアになる。

右写真は温謙堂の裏側(四合院式の内側を表側としたときの)で,左写真は南側に立つ屏風。その先に依謙院エリアが広がる。

温謙堂の裏手の柔謙門(くぐった後に振り返って撮っているので,奥に見えるのが温謙堂)。

柔謙門をくぐって南側を見た。左写真(南東方向)の手前にはかつて持謙堂が建っていた。いくつかの小さな門と壁のみが建っている。その奥には,先ほど見た至謙堂が見えている。その手前の通路の先(左手の先)には,入ってすぐに見つけた閉じられた門(隙間が開いているが写真を撮り損ねた門)がある。右写真(南西方向)には,かつて依謙院が存在した広場が見える。後から付けたような基礎がある。この広場のさらに西には2つのエリアが存在することが分かっているが,アクセスできないようになっている。

持謙堂(左)と依謙院(右)との間の石畳。2つのエリアの間には,二重の巨大な屏風が立っている。

フランス人相手にフランス語でガイドするベトナム人がいた。チュンさんに訊いてみると,あらゆる言語を使うガイドがいるらしい。ラオス語の使い手もいるとか。外国人向けガイドのうち,日本語のガイドがどれくらいの割合でいるのか,訊いてみたら良かったな…。

四合院式の中庭。温謙堂を背にしているので,右側が既に内部に入っている和謙殿,正面が鳴謙堂,左側が良謙殿。

トゥドゥック帝の生母である慈裕太后を祀る良謙殿。離宮として作用していた頃は,ここで皇帝が寝起きしていた。

良謙堂内部。ここに売店があり,フエやフエの史跡や歴史に関する書籍がある程度売られていた。phan thuan anというフエ在住の歴史研究家が執筆した『HUE La Citadelle et ese Palais』が欲しかったので,探したが見つからない。チュンさんに執筆者の名を伝え,店員に探してもらったが,それでも見つからなかった。仕方がないので,同著者のフエの世界遺産を紹介した『Lăng tắm Huế một kỳ quan』を購入しておいた。ベトナム語ではあるが,写真がたくさんあるのでいいだろう。これを読むためにベトナム語を勉強してもいい。昨日,ホーチミンで辞書を買ったわけだし。

鳴謙堂の皇帝と皇后の座。合計で三段も高い位置にある。

天井には星座が描かれ,皇帝の座の正面に舞台(右写真)がある。

鳴謙堂から寝の上方向を見たところ。左手は良謙堂。良謙堂の背後の様子を知りたかったので,椅子のある鳴謙堂に奥さんとチュンさんを残して,一人で行ってみる。暑いので二人に負担をかけられない。

鳴謙堂の裏手。寝の入り口方向に向いている。左手の壁には屏風が埋め込まれている。麒麟の装飾が施されているが,その手前部分が花壇になっているのはどうだろうか…。ともかく温謙堂の裏側正面にも屏風があったし,邪気が入り込まないように外側に設置されているのだろう。

左手に良謙堂,鳴謙堂を背にして南西を向いたところ。鳴謙堂から伸びる石畳の先には門がある。

門をくぐってその先へ。寝の最奥部北側。この敷地には従謙院という伝宇があったが,今は見る影もない。左手の門をくぐってさらにその先へ。

裏手から見た良謙堂。これも二つの棟が連結されているのが分かる。

真後ろから見た良謙堂。誰も訪れないからか,整備されていない。

良謙堂の裏手。寝の最奥部中央。ここにはかつて益謙堂が建っていた。タインホア産の石畳はここまで続いており,この先の屏風で終了している。屏風には複雑な模様が施されており,太陽と雲,龍が向き合っていると考えられる。上部にも龍が彫られている。その手前には水場となるような岩場がある。

寝の最奥部南側へと続く門。門の上部には鬼瓦に似た顔。そしてその両側には龍の頭が。

寝の最奥部南側。その背後に温謙堂がある。かつてここには用謙院が建っていたが,今はその基壇とおぼしきものしか見あたらない。

寝部分は以上で終了。鳴謙堂で待たせていた奥さんとチュンさんと合流する。奥さんはチュンさんの身の上話を聞いていたらしい。それによると,チュンさんの奥さんは学校の先生だという。また,日本にホームステイした経験があり,東京の他,静岡などに滞在したという。また,私が普通のデジカメではなくiPhoneで写真を撮っていることに疑問を抱いていたようだが,奥さんがfacebookなどで友達に紹介したいから撮っているようだ,と説明したところ,合点がいったそうだ。

次は陵部分。

複雑な形の水路に沿って寝の北へと進む。

陵部分にやってきた。ほとんどが崩れており,廃墟然となっている。

一段目。特にここには何も配されていない。

二段目の拝庭。他の帝廟と同様に員弁石形(文官),侍衛石形(武官),石馬,石象が左右に配されている。

三段目に登ると碑亭が建っている。

碑亭の背後には,対になった華表柱が建っている。

これまで観た碑亭と比べて装飾性が高い。

内部にはトゥドゥック帝が纂文した「謙宮記」を刻文している。「謙宮記」とは素性の知れない編纂物であるが,その名から推察するに,この謙陵について記したものであるかもしれない。もしそうだとすれば,他の陵とは趣が違っていることになる。帝が生前に完成した陵であることが,他の陵との最大の違いであろう。

碑亭の裏手には三日月の形をした小謙池がある。それを挟んで向かいに宝城へと向かう階段がある。

崩れかかった壁にも装飾が施されている。壁にラウンドがかかっているのが特徴。また階段の外側の壁にも(右写真)。

一段目から門を望む。階段左右にはやはり蟠龍。階段は三つある。

他の崩れ具合とは分相応に奇麗な門なので,修築しているのだろう。また,振り返って門から碑亭方向を撮ってみた(右写真)。

入ってすぐの屏風。右写真は裏側。

城壁は二重になっている。外側の城壁の奥には屏風があるが,装飾はない。

一段高い場所に宝城がある。石室である。その背後にも屏風が建てられている。ただし,他の陵の例にもれず,この陵にも帝の遺体は埋葬されていない。本当の埋葬場所は秘密になっている。ただし,12代皇帝のカイディン帝のみは,陵に遺体が埋葬されている。この石室はタインホア産の石を使っている。

寝の入口の先,水路の向こうには小高い丘がある。


以上でトゥドゥック帝の寝陵は終了だが,他にトゥドゥック帝の皇后を祀る謙壽陵と,トゥドゥック帝の養子でありグエン朝七代皇帝建福帝の陵である陪陵があるので,それらも見ていく。

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