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フエの陵墓・王府祠堂巡覧 2015年3月6~10日

海東郡王陵・寝

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海東郡王陵・寝

さて,衛星写真を見ると学校の周辺には3つの陵墓があることを確認できる。そのうちの2つは既に観た長基陵と長紹陵だが,これらはWikimapiaにより事前にその名を確認することができていた。しかし問題は長基陵と50mと離れていないもう一つの陵墓だ。衛星写真からは,他の2つと同様に二重の囲いがあることが分かっており,陵墓であることは疑いがない。個人の墓という可能性もあるが,その大きさは一般人のそれではないし,普通は墓地に造営するものだ。

ユンさんに「もう一つあるんだ」と言って,推察される方角を指し示した。少し近づいてみると,林の中に城壁らしきものが見えたので,ユンさんと向かうことにした。地図上で確認していなかったら,見落としていたかもしれない。それほど崩れてしまっていたのだった。衛星写真で見ても,一般人の墓よりはずっと大きいが,他の陵墓よりはやや小さい。


長紹陵の北北東にある方形の領域がこの陵墓。

7:57。一般人の墓ではないことは確実であるが,いったい宗室の誰が祀られているのだろうか。羅城も内部の囲みもすっかり崩壊していた。直接宝城が見えないよう屏風があったはずだが,それはすっかり崩れており,その手前の碑には「海東郡王之寝」とある。『大南一統志』には「海東郡王諱明…興祖之子也」とあるので,興祖つまり嘉隆帝の父阮福㫻の次子阮福晍であることが分かった。海東郡王の母は孝康皇后阮氏で嘉隆帝の同母兄である。


これまで見てきた陵墓の大半は,阮朝皇帝か,その祖先である広南阮主のそれだったが,今回の陵墓は皇族のものだった。おそらく格として一段下がるために陵墓の規模も小さく,またその維持も不十分なのかもしれない。

ユンさんは誰の陵墓なのか知りたがっていた。この碑を見て「中国語か?(=漢字か?)」という質問をぶつけてきたのにはくらくらした。ベトナムでは1945年以降識字率の向上を目指して漢字教育を廃し,以後拡張したラテン文字アルファベットによる教育が行われている。漢字文化圏にも関わらず街にはラテン文字が溢れており,日本人は違和感を覚えるが,ユンさんのその質問には「ベトナム人は漢字を見ても,その文字が漢字であるかどうかの確信すら持てない」という背景があるのだ。自国の歴史を伝える文字を読めないのは,歴史をかじった者からすると悲劇というしかない。「…うん,中国語だ」と答えるしかなかった。

「誰の墓だ?」と質問されたので「ヤロンgia long(嘉隆帝)の息子だ」とだけ答えておいた。「阮福晍」「海東郡王」をどうやって彼に英語で伝えるべきなのか? 音でなくthe king of the eastern seaと意味を伝えたとしても,そこに何の意義があろう。それらをベトナム語のアルファベットで書いてあげる方法もあったが,漢字ありきの歴史的事実を音のみで伝えたところで,それにいったいどれだけの意味があるのか?

漢字は音のみを示す文字ではない。むしろ音には副次的な価値しかなく,そこに表される意味にこそ漢字の本質的価値がある。意味を棄てて音のみを残すことに無謀さを感じざるを得ない。

固有名をピンインで表記されてもまったくイメージが湧かない。漢字が用いられていることで,我々日本人は中国語の習得が比較的容易になっている。漢字を使わない外国人が中国語を習得する苦労は想像を絶するものがあると私は思うのだが,彼らは漢字を介することなく音と意味を直結してしまう。これまた想像を絶するものがある。

内側も崩れ落ちており,ほとんど囲いになっていない。


宝城。かろうじて裏側には屏風があった。


屏風側から入口を振り返って見るとこんな感じ。入口はあるが門はなかったようだ。わらのカタマリを掲げるものがある。ベトナムで初めて見るものだ。入口付近にユンさんが映り込んでいる。


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