玉山公主陵・寝
次こそは思陵(同慶帝廟)周辺に行ってもらう。この辺りには陵墓が集中している。その割にはなかなか探訪が難しく,私にとって鬼門のようなところだ。既に訪問できているのが7つで,未訪だが存在を確認できているのが3つ。勿論今回は未訪の3つ全てを訪問するつもりだ。
同慶帝から田圃越しにほぼ真東のところに,ベトナムのラストエンペラーである保大帝(バオダイ)の母親の陵墓があることを,衛星写真から確認している。ただしその全貌は全く見えない。田圃のあぜ道を進んでいく必要があるが,あぜ道は非常に狭くて下手をすると足を踏み外してしまう可能性がある。このまま突っ切ることはできない。
そこでこの田圃を大きく迂回してみることにした。地図を見ながらユンさんを誘導していくが,車では渡れない幅の橋にぶつかってしまった。これまでメジャーな陵墓以外はほぼ全て一緒に探索していたのだが,ユンさんは来ようとしない。長泰陵での徒歩が堪えたんだろうか…。一人で行ってみることにした。
しばらく歩くと目的の陵墓の方向に伸びる枝道が現れ,そこから2人が男性が歩いてきた。人目も無いし,腕っ節が強そうだったので身構えたが,目が合った上話しかけられてしまったので,思い切って道を訊いてしまう。手製の地図のLăng Từ Cungという文字を指して「ラン・トゥ・クン」とそれっぽく言って道の先を指さしたが,この枝道じゃないらしい。曰く,もう少しまっすぐ進んでから枝道に入るのだという。うーん,なんだか怪しいけどあまり一緒に居ると危険を感じるので「ありがとう」と言って足早に立ち去った。「どこから来たんだ?」と言われたので「日本だ」と答えてしまったが,あまり良くなかったかもしれない。
まもなく坂道となり登り切ったところで,人家がいくつか建っていた。しばらく歩かないと枝道に辿り着かない。やっぱりさっきの枝道だよなぁ…。またあの男たちと絡むのは嫌だが,無駄に歩くのも嫌だ。もう居ないと思って戻ったが,一人はまだそこに居た。「見つかったのか?」と訊かれたので,「いや…こっちの道じゃないの?」とまた訊いたのだが,男は「この坂道の上から枝道に行くんだ」との一点張り。それを抗ってまで最初ににらんだ枝道を行くことはできない。男に見つめられながら再度坂道を登っていく。
再び人家が建つところへやってきた。先ほどから掃き掃除をしている人の良さそうなおじさんがいたので,訊いてみる。さっきの男と同じことを教えてくれたら今度こそ信じようと思った。果たしておじさんも同じ道を教えてくれた。
腹を括って男とおじさんが教えてくれた道を進む。突き進むと道も無くなってしまいそうになり,「やっぱりガセだったのか?」と疑ったそのとき…。
10:40。崖の上に墓らしきものが!
ちょっと無茶をして登ってみると,そこには段差の設けられた墓の複合体があった。うーん,規模としてバオダイの母親の陵墓とは全く考えられないし,衛星写真で確認できたものとは全く姿形が違う。
これなどは,墓標にpham ngoc muiとあり,日付は12.11.1999。絶対にバオダイの母親じゃない。
この墓の複合体のうち,最も高いところには門が設置してあった。これは皇族の陵墓かもしれない。
門の左右には獅子のような装飾が。それに墓標を保護する庇がある。割った陶磁器によるモザイクがあしらわれ「天地」などといった漢字を確認できる。
墓標には「啓定三年六月吉日 玉山公主諡荘雅之寝」とある。皇族で間違いない。同慶帝の娘だ。
背後には宝城と屏風が。
玉山公主の寝の門の裏側にも陶磁器によるモザイクがあしらわれている。
これは玉山公主の寝の向かって左側に隣接して建っているもの。屏風を備えてはいるが,墓標を確認するとNgi Huu Tienとの名で1885-1958とある。ひょっとすると玉山公主の夫なのかもしれない。玉山公主は阮朝の皇族であるが,夫ならば皇族ではなく玉山公主と比べると格が低いため,門が無かったり,囲いが一段低かったり,墓標に庇が無かったりと差があるのかもしれない。
ともかく,バオダイの母の陵墓ではなかった。3人ともこの陵墓だと言っていたのだが…。おそらく陵墓の名など区別せずに「陵墓ならあっち」という感覚なのかもしれない。ともあれ,認識していなかった陵墓が偶然見つかったのは,単純に嬉しい。
ユンさんと合流すると,「バオダイの母の墓を見てきたのか? 写真を見せてくれ」と興奮していた。バオダイともなると特に関心が高いようだ。「違った」と言うのも面倒なので,とりあえず「現地の人に聞いたらここだって」と写真を見せた。ユンさんは腑に落ちない様子だった。