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フエの陵墓・王府祠堂巡覧 2015年3月6~10日

王府祠堂巡り2 安𦾔河沿い

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王府祠堂巡り2 安𦾔河沿い

最後の日は再び自転車を借りてフエ市内の王府巡り。フエ初日は,ホテル着後の僅かな時間でホテルから北に延びるNguyễn Sinh Cung通りを中心に王府を探した。その続きだ。特に早く出る必要はないので,今日は8時からのスタートとした。

フエ3日目の朝食。6:45頃に朝食を摂りに。こんなに早く食べる必要もないが,混み出すと一人だと色々と迷惑がかかりそうなので。最後の朝食はブンボーフエ。フエに来たらやっぱりブンボーフエ。朝はこういうつるっといけるのが良い。


7:15頃にいったん部屋に戻る。しばらくは待ち時間。ゆっくり荷物を整理したり,身支度を調えたり。もし今日の王府巡りが成功したら,おそらくフエに来ることは,そしてこの宿に泊まることもなくなるかもしれない。少なくとも数年はここには戻って来ないだろうな。ちょっと寂しくなった。

しばらく部屋から外を眺める。一緒に朝食を摂っていた南アフリカのカップルが出てきた。どうやら一日バイクタクシーをチャーターしてどこかに行くみたいだ。女性の服装の露出度がやけに高いが,西洋人だから許されるんだろうなぁ。ヘルメットを渡されて被って出発していった。一日バイクの後ろに乗ってるって結構大変だぞ。自分はやりたくないなー。

7:50頃にロビーへと向かい,チェックアウト。荷物を預けて自転車を待つ。初日に借りた時はおっさんが運んで来たが,今日はおばさんが持ってきた。

去年ツアーをアレンジしてくれたジュリアが出て来てさよならの挨拶をしてくれた。「今日はいつ戻る予定?」と訊かれたので「午後になる」と言うと,「自分は14:30で仕事が終わるので,ここでお別れね」と。握手を交わし,「またいつか泊まりに来るよ」と言って自転車を漕いだ。

なんとか大通りを避けようと,Nguyễn Công Trứ通りを東へ進み,Nguyễn Lộ Trạch通りに入る。Vĩ Dạ橋手前の交差点はバイクの通りが激しかったが,なんとかクリア。コツはやはり同様に渡ろうとしている現地の人と一緒に渡ること。

ピンが立っているのは滞在したホテル。

Nguyễn Lộ Trạch通りを暫く東進したところで適当な脇道を南下。Bà Triệu通りを南下してHùng Vương通りに合流。この交差点がフエで最も往来が激しいが,なんとか乗り切る。あとしばらくは交通量も大人しくなる。

An Cựu橋の手前でPhan Đình Phùng通りに入る。ここから王府めぐりを開始する。

An Cựu河沿いの南北の通り沿いに王府が点在する。まずPhan Đình Phùng通りを西進し,端まで行ったら,今度はAn Cựu河を渡って南岸のPhan Chu Trinh通りを東進。端まで行ったら,再度交通量の多いHùng Vương通りを北上してTrường Tiền橋を渡り旧市街へ行こう。

まずはアンクー(An Cuu安𦾔)河の北岸沿いのファンディンフン(Phan Đình Phùng)潘廷逢通りを進む。往来が少なく,肩慣らしにはちょうど良い交通量。

東西に流れるのがアンクー河で,その北岸沿いの道がファンディンフン通り。東端から西へと進んでいく。

最初に見つけたのは安化公祠phủ An Hóa Công。安化公は同慶帝の次子である阮福寶嵩Nguyễn Phúc Bửu Tủng。門はおそらく当時のまま。上部には樹木がからみついていて保存状態は劣悪。食堂の庇がかかっており,その支えが門に打ち付けられている。歴史的建造物というより,ただの門としての扱いになっている。


庇には「大衆食堂サイゴン・コムタム」とある。ビンザンbinh danは平民という意味で,転じて「大衆食堂」。コムタムcom tamは「砕き米」(砕いてから炊いたご飯,ぼそぼそしたインディカ米を口当たり良くするため)のこと。サイゴンsai gonはホーチミン市のことだが,おしゃれ感を出すためによく店名に付けられる。

扉は開いており,親子がこちらの様子を興味深げに見ていた。「中に入っていいか」と英語とジェスチャーで伝えると,笑顔で頷いてくれた。母親は何かを食べていた。


門の先にはおそらく当時のものの屏風があるが,住居の壁の一部として埋め込まれている。門と屏風の間は駐輪場となっており,洗濯機も設置され生活の場となっている。屏風にはフックが取り付けられ,ヘルメットなど生活の品が提げられている。


これ以上中を見せてもらうのは流石に申し訳ないので,祠堂の有無は確認できなかった。母親がだっこしている子どもに手を振りつつ次の王府へ。

名称不明の王府。門はおそらく当時のまま。扉は木製で閉まっていた。門の脇は食堂となっていて,遅い朝食をとる人たちが「突然の珍客」の動きを注視していた。


楼上の装飾が素晴らしい。門と塀の間には獅子が。

入れないのであればと,門の隙間から貪欲に中を撮影。食事中の人が怪訝な顔をしているが気にしない。立派な屏風だ。麒麟の彫り物がある。


中には入れないと思っていたが,門を抜けずとも,向かって左側が開いており,そこから中に入ることができる。門の内側には陶片によるモザイクが一部残っていた。さぞかし立派な門だったのだろう。屏風の前はなぜか瓦礫が積まれていた。

名称不明の王府の内部。奥の祠堂はおそらく当時のものだろう。今回確認した祠堂の中で,最も立派だった。

屋根の上にも王宮でも観られるような装飾が。


門の内側付近を撮影。物置スペースになっており,門が門の機能を果たすことはこれからも無いだろう。


いきなり現れたきらびやかな門。これは安定宮といい,阮朝のラストエンペラー保大帝の邸宅だった宮殿。2012年7月に初めて訪問したが,その時には閉門していて,宮殿内も見学できなかった。

門の先には中立亭という四阿と,宮殿の啓祥楼。宮殿の入口には数人の係員と思しき男性たちが座って談笑していた。「入っていいか」と訊ねると頷いてくれた。流石に英語が通じる。見学は無料だった。後で知ったことだが,4万ドンほどの入場料を取られるはずだった。しかしなぜか係員達は私に請求することはなかった。


門の裏側。


内部は清掃中。多少の展示品がある。英語の通じる女性スタッフがいて,少し案内してもらった。写真は保大帝とその妃の写真と切手。フランスのインドシナ政府と南ベトナム政府という,現在のベトナムが過去に敵対・打倒した政体が発行した切手が展示されているのが興味深い。


阮朝最後の皇帝の后妃,南芳皇后の陵墓。フランスの墓地だそうだ。


内部にはシャンデリアがある。一階と二階の中間に外に出るテラスがある。


中二階のテラスへの入口。「啓祥楼」とある。


北側のテラスからの眺め。入口とは反対側。2012年にはこの先の裏側から入った。あの真正面に見える塔はなんだろう。


正面(南側)の眺め。


さすがに装飾性が高い。完全な洋風かと思いきや,漢字が刻まれていて不思議な思いがする。

堅太王府祠phủ thờ Kiên Thái Vươngの王府門。先ほどの名称不明の王府の門と意匠が似ている。おそらく当時のままだろう。向かって左の扉が開いていた。手前にスロープが備わっていたので,この門のみ開放しているのだと思われる。門には祠堂の名がない。堅太王とは淳毅堅太王である阮福洪侅Nguyễn Phúc Hồng Caiのことで,紹治帝の26子で咸宜帝・同慶帝の父。

門を入ってすぐの屏風。左が表で右が裏。

祠堂。祠堂内部中央の額には「《純》毅堅太王」とあり,微妙に違っている。誤字か。

祠堂内部,向かって左の祭壇には咸宜帝の写真が。向かって右の祭壇には建福帝の写真があった。

屏風の裏には鼎。


門の裏側。楼上に何かあるようだが…。


玉林公主亭と文字が刻まれているのが読める門。事前調査時には不明だった王府。公主なので王府と言って良いか疑問。門は当時のものだろうか。門と屏風の間にはバイクが駐輪されており,完全に一般の住居と化している。

なお,向かって左に設置されているやけに派手な祠は,「祀道(シーダオ)」と呼ばれる土着・民間信仰のものらしい。日本で言うところの祠だろうか。ベトナム人には仏教とも矛盾せず信仰されているようで,その点も日本と似ている。

名称不明の祠堂。門は存在しない。麒麟の意匠の屏風は存在。祠堂は柱と屋根を残して崩壊。今にも崩れそうなので,安全のため近寄っての調査はしていない。

門に掲げられていた銘板によると「保大帝の生母である慈宮皇太后が最後に居んでいたところnhà lưu niệm Từ Cung Hoàng thái hậu」らしい。扉は開いていたが,中の邸宅跡の扉は閉まっていた。扉がやけに綺麗なので修復されているものと思われる。


名称不明の祠堂。「第九系(?)皇太(?)子襄信房(?)」と銘打っている門。「襄信」とは誰なのか,明らかにできなかった。門が通りに面しておらず,ダートの中にある。しかも門と屏風が並行でないなどの特徴がある。

門の裏側には「1938」とのアラビア数字があり,うさんくさい。ヒュンダイの観光バス(?)の駐車場の一角にあり,ますます怪しい。なお門の先にあるのがホテルで借りた自転車。わりと立派。


屏風には麒麟。


中の祠堂。うさんくささはあるが,俗悪ではない。


9:15。そろそろ今日の気温が気になったのでiPhoneで確認したところ最高でも29℃までで,それほど苦になるような日ではないようだ。

従善王府phủ Tùng Thiện Vương。従善王とは明命帝の10子,阮福綿審Nguyễn Phúc Miên Thẩm。門に直接クオックグーが刻まれているので,後世に造ったものと分かる。扉はいずれも閉ざされていて内部見学不可。向かって右の扉に連絡先が掲示されていたので,連絡すれば見学できるのだろうか。

正門の左右に獅子。

門の内部は確かに清潔感があるが,粗悪な復元の印象をぬぐえない。


門にtu duong(祠堂)とあるため,慌てて自転車を駐めた。phong tung thien vuongとある。「従善王房」と復元できる。ということは先ほどの祠堂と何らかの関係があるのだろうか。

祀られている人物を探るため,扉の隙間から撮影してみたが,明るさが足りず分からなかった。

楽静園Lạc Tịnh Viên。紹治帝の9子である豊禄郡公Phong Lộc Quận Công阮福洪伉Nguyễn Phúc Hồng Khẳngの母親の邸宅。残念ながら駐輪場と化しており,資材も積まれていた。


札には「kinh bao」とある。「敬報」で「お知らせ」ということか。門の扉は施錠されていなかったので,中に入ってみる。注意されたら謝って出ればいい。

門の裏のほうが立派に感じる。内部はきちんと整備されているだけに入りづらいが,それだけに個人宅ではないように思う。カフェか?

屏風の裏には盆栽。


内部は喫茶店だろうか。庭の樹木に水やりしていた男性にジェスチャーで断りを入れて,内部を見学した。

続いて安𦾔河の南岸沿いのPhan Chu Trinh潘周楨通りを進む。

陳興道の殿宇。閉門していて内部の見学はできなかった。悪趣味なくらいゴテゴテとした装飾が施された門と屏風。

なんとかして屏風の裏側を撮影。祠堂か。


最初に現れたのは美化公祠phủ Mỹ Hóa Công。内部はQuán Cafe Tôn Nữ Viênという名前の喫茶店となっていた。看板も堂々としたもので,史跡であるということへの配慮はあまりないようだ。門はおそらく後世に復元されたものでかなり汚い。門と屏風の間は喫茶店の駐輪場となってしまっている。

屏風の裏には鼎。店名のTôn Nữ Viênは「尊女園」の漢字音だろう。「尊女」は尊室と呼ばれた阮朝皇室の女性のことか。ということであれば,阮朝ゆかりの史跡であることを売りにしているようではある。内部に祠堂は存在するが,客が入っていたので撮影を遠慮した。


Phan Chu Trinh通りにも王府がたくさん現存していると思っていたが,めぼしいものがなかった。

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