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フエの陵墓・王府祠堂巡覧 2015年3月6~10日

王府祠堂巡り3 富葛・富峡

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王府祠堂巡り3 富葛・富峡

続いてTrần Hưng Đạo通りを東進してGia Hội橋を渡り,Chi Lăng通りへ入る。新市街と旧市街とを分けるフーン河を渡らねばならず,なかなかの交通量に面食らったが,だんだんと慣れてきた。ただそれでも最大限の注意を払わねばならない。自転車にベルが付いていないのが致命的だ。ちなみにリムにゆがみは無いし,ブレーキ・タイヤの空気量ともに問題はなかった。

Chi Lăng通りまで来れば交通量は落ち着く。Chi Lăng通りは華僑が多いとのこと。

まず現れたのは寿春王府phủ Thọ Xuân Vương(Kiet1/209)。寿春王は明命帝の3子阮福綿定Nguyễn Phúc Miên Định。門は柵で囲まれているが,一角のみ開いており見学を拒否しているわけではなかった。やけに綺麗なコンクリート製なので後世によるものか。

麒麟の屏風。裏側は特に何もない。

屏風と祠堂の間には立派な碑があり,「嗣徳三十二年七月初一日」の日付がある。祠堂は囲まれており進入不可だった。かなり新しめ。

瑞太王府Phu Thụy Thái Vương(Kiet227)。瑞太王は紹治帝の4子阮福洪依Nguyễn Phúc Hồng Y。門は相当劣悪に復元されたものだ。門は閉ざされており,張り紙があった。thong baoは「通報」だろう。手書きながらかなり丁寧だ。

屏風はシンプルで,クオックグーの表示しかないプレートを中央に配したもの。中央に「Thụy Thái Vương」(瑞太王)とある。屏風の裏には鼎がある。その先に祠堂。おそらく大部分で当時のものだろう。柵に囲まれており進入不可だった。

かなり立派な祠堂。階段には幡龍が配されている。切妻の側面にはコウモリ。「蝠」の字が「福」に通じるため縁起の良い意匠となっている。これはベトナムが漢字文化圏にあるということの証左。

祠堂のすぐ隣に怪しい建物が。nha dai sanhとある。nhaは家や建物を示す言葉。dai sanhはベトナム語になく何らかの漢字音であろうが,声調記号がないため特定できない。

なんと屏風の裏側に「福」とあった。屏風は門から入る悪い気を防ぐものだから,普通は門の側にめでたそうなものをデザインするのだが…。


和盛王府Hòa Thạnh Vương phủ(255)。和盛王は明命帝の37子阮福綿寯Nguyễn Phúc Miên Tuấn。この門も劣悪な復元によるもの。ただし漢字のバランスはまずまず。屏風の《ような》壁が門と祠堂の間にある。門との間には二つのプルメリアが植えられているが,地面はコンクリートで固められ,庭用の柵で囲われている。祠堂と門との間が完全に閉じているため,門の意義が失われている。

祠堂は柵に囲われており内部の見学は不可。しかしまずまずの復元。植木が置かれており,それなりに管理されていることが伺えた。


廣邊郡公府Quảng Biên Quận Công phủ(242)。広辺郡公は明命帝の32子阮福綿家Nguyễn Phúc Miên Gia。たくさんの犬が中から出てきてだいぶ吠えられた。ベトナムの犬は概してビクビクしている。警戒が強すぎてたくさん吠えているのだと思う。門は全く復元されておらず,住宅用の門になっている。クオックグーによる額を設け,その上に劣悪な蝙蝠が乗っていた。

門の先に屏風も祠堂もなく,道は左に曲がっている。道に沿ってランタンがぶら下がっており,中は喫茶店かビアホールになっているようだった。家人が掃き掃除をしていたし,犬を騒がせてしまったので,門の内に入ることは遠慮し,早々に立ち去った。

華僑の多いChi Lăng通りには,出身地別の同郷会館がいくつか存在する。左は潮州会館。ただ,今回も目的は王府巡りなので,同郷会館についてはほとんど調査していない。

右は福建同郷会。華僑が多く住む地域では,今でも中国語が通じるとか聞いたことがあるが,果たして…。もしそうだとしても,中国語が話せない自分には確かめられない。

奇豊郡公府Kỳ Phong Quận Công(345と347の間)。奇豊郡公は紹治帝の23子阮福洪停Nguyễn Phúc Hồng Đình。普通の住宅用の門の上に木製の額を掲げ,漢字にて「琦峰福郡公」とあるが,「琦」のおうへんが小さくアンバランス。おそらく当初は「奇」だったが,後で誤りに気づいて付け加えたか。中央の「福」の字のみ書体がやや違っていて,配慮しているようではあるが,それにしても◇で囲むなどして「琦峰福郡公」と誤読されないようにする配慮は必要だったのではないか。また「琦峰郡公」は誤字。

その額を保護するかのように上に庇が備わっている。右手に商業用看板が取り付けられている。 門と屏風の間には植木などが植えられており,庭のようである。住人が土いじりをしていた。声をかけると目を合わさず頷くのみだった。

祠堂は至極劣悪なもの,およそ祠堂とは言えないようなものだった。手前にはごてごてとした五重の塔が建っており,最上部には「tu duong其英郡王」とある。tu duongは祠堂のことであるが,「其英郡王」は意味不明。しかも漢字のバランスが悪く,漢字を知らない者が見よう見まねで作ったようだ。

Chi Lăng通りを北上してCao Bá Quát通りに入って西進,Nguyễn Chí Thanh通りに入って南下する。Nguyễn Chí Thanh通りも王府が多い。

Nguyễn Chí Thanh通りの148番地,脇道kietに入ってすぐの堂宇。どんな王府にも門があるはずで,道に裸で面しているものはない。不明。


霊佑観Linh Hựu quánとある道観。珍しい道教の施設。門には柵がしつらえてあり内部に入れなかった。


Chùa Tăng Quangとの説明のある上座部仏教寺院。おそらく「増光寺」か。ベトナムは東南アジアの仏教国ではあるが,中国から伝わった大乗仏教を受容しているので,かなり珍しい。

懐国公祠Phủ Hoài Quốc Công。懐国公が誰かは不明。劣悪な復元による門だ。


富美郡公府phủ Mỹ Quận Công phủ。富美郡公は明命帝の8子阮福綿富Nguyễn Phúc Miên Phú。門は一般住居用のそれで,扉は閉まっていた。

門・屏風・祠堂の関係が混乱しているように思う。屏風の裏には線香立てと鼎があった。鼎は立派なもので,一見当時のもののように見えるが,「符美郡…」と左から右へと読めるように文字が配列されているのが怪しい。「富」を「符」と誤っていることから,音を頼りに適当に漢字を宛てているように思えるので,後世になってからの捏造と言える。

祠堂は住宅のようなもの。やはり「符美郡公祠」とあった。やけに大きな庇が張り出している。


なお,この王府を出たところでおじいさんに絡まれた。王府の見学にあたり,私が礼を失していた可能性はある。それを指摘された可能性を考えた。失礼ではなかったと言える自信はないが,このおじいさんは通りすがりの人物で少なくともこの王府跡に居住する方ではないようだ。手を出していたので「金くれ」ということかもしれない。終始英語で「ベトナム語は分からない,英語で言ってくれ」で通し,諦めさせた。最後に捨て台詞のように「バーーー」と言われた。言葉の意味は分からない。ただ私は「調子に乗るな」と警告されたと捉え,より謙虚な気持ちで見学しようと思った。

帰国後「バー」の意味を調べた。baであれば「数字の3,父親,火曜日」,bàであれば「祖母」,báであれば「伯母,伯爵」,bãであれば「ゴミ,疲れる」,bạであれば「無作為」,bảであれば「毒」。ベトナム語の侮蔑語は分からないが,私が言われたのはbãだろうか。

玉山公主祠Ngọc Sơn Công Chúa từ。ここには阮朝宗室の血を引く郷土史(=フエ史)研究家が住んでおり,予約しておけば英語による説明が聞けるらしい。彼の著書を持っているので,それを持参して話そうかと思ったが,予約すると行動に制限が出てきてしまうため,今回は見送った。

内部には整備された庭園があった。

玉山公主の墓らしい。


宜国公祠。宜国公とは誰か不明。門は劣悪な復元,文字がアンバランスな上,配色が酷い。門の前には賭け事に使ったであろうトランプが散乱していた。屏風にはなぜか「福禄寿」という文字がある。

祠堂は囲まれており見学不可だが,当時のもののように見える。


Tô Hiến Thành蘇憲誠通りという短い通りへと入った。

奥に祠堂も見えるし門も王府のそれだと分かるが,扉が完全に塗り固められてしまっていて,よく分からなくなってしまっている。


弘化郡公府phủ Hoằng Hóa Quận Vương。弘化郡公は明命帝の66(一説には65)子阮福綿𡩀Nguyễn Phúc Miên Triện。門は劣悪な復元。屏風も劣悪で,文字もモザイク画もない。ただし祠堂の一部分は当時のものか。

Bạch Đằng白藤通りという大きな通りへ。

王府なのかどうかよく分からないが,奥に祠堂のようなものが見えた。門には「雙松」・「福慶」とある。

祠堂を確認したが,それでも王府かどうかの確認はできず…。


嘉興王府phủ Gia Hưng Vươngの前の門。嘉興王は紹治帝の8子阮福洪休Nguyễn Phúc Hồng Hưu。祠堂は脇道に入ったところにあり,門は二段構えとなっている。付近の住民が集まって立ち話中,英語とジェスチャーで伝えると笑って「観ろ」と言われた(と思う)。後で写真を確認したら,バイクに乗ってるやつがピースしてやがった。

付近は住民のフリーなスペースになっており,駐輪場と化していた。屏風は非常に劣悪で,なぜかカラフルな鼎などが描かれていた。

屏風裏手,「養正国」と刻まれた碑との間のスペースは柵で囲まれ立ち入り不可。柵には付近の住人が洗濯物をかけて干していた。祠堂はなく,代わりに碑が一基建っていた。

嘉興王府phủ Gia Hưng Vương。ん? こちらこそが本当の嘉興王府か? 門の「嘉興公府」の下には漢字を模したようにひとまとまりで綴ったphủ Gia Hưngの文字。劣悪な門だ。


奥の門。柵で囲われている「嘉興王祠門」の下にクオック・グーでphủ Gia Hưng。ややまともな復元。向かって右の扉のみ開いている。屏風もややまともな復元。

Bạch Đằng通りに戻ろうとして門の裏にプレートがはめられていることに気づいた。1999年とある。門の裏側も手を抜いてはいなかった。

妙諦寺Chùa Diệu Đế。線香の原料のようなものが門の手前に並べられていた。中は意外に広大に見えたので門をくぐって本堂を遠くから撮るくらいに留めた。

Bạch Đằng通りに沿って流れるĐông Baドンバ河。


妙諦寺のすぐ隣りの順化寺Chùa Thuận Hóa。寺と言いつつ,道教の神関聖帝君を祀っている。

順化とはフエの古い名前。ベトナムの公主がチャンパ王に嫁いだ際,両国の折衝地帯であるウ州(烏州)とリ州(里州)がベトナムに割譲された。それらは順州,化州と改名されベトナムの領土となった。そのうち合併して順化州と呼ばれたのがフエのもと。《順》州,《化》州とは,中華思想の漂ういかにもなネーミングだなぁ。

Bạch Đằng通りの北端まで行ったところで,おなかが空いてきた。時計を見れば11:40。そろそろ昼食にしよう。Bạch Đằng通りを南下してĐông Ba橋を渡り,再び内城へ。

昼食にLê Thánh Tôn通りにある宮廷料理を提供するレストランTịnh Gia Viênを選んだ。。Mai Thúc Loan通りから入って南下。大分進んだところで看板が見えたので脇道に入るとすぐだった。とても静かな脇道。ちょうど12時だった。

『地球の歩き方』には,王族の末裔が経営するとあり,この庭ももしかしたら王府の名残なのではと思ってきたが,門も屏風も祠堂も見当たらなかった。

来店すると,女性から「コースのみであり,2人から提供」と説明され,なんと名も知らぬ外国人との相席を勧められてしまった。料理は《同じ皿で2人分》で来るので,単に同じテーブルに座るという意味ではなかった。見知らぬ外国人どうしが同じ料理を箸で突き合うのだから! 

相手とも顔を合わせてしまったし,相手は拒否するようなそぶりもなく,いまさら帰るわけにもいかず,相席することになった。相手は韓国から来た「チュンギー」という名前の34歳の男性。ドキュメンタリーなどの映像を作る会社に勤めていたらしいが,辞めて今は東南アジアを旅行中とのこと。


最初に出てきた蒸し料理とスープ。

揚げ春巻き,何かの揚げ物のあんかけ。

亀の形をしたチャーハン。


お互いの国の言葉は分からないので共通語である英語で会話をした。自分の出身をsouth koreanと言っていた。north koreanが個人旅行で外国に来るわけはないので,区別する必要はなく,koreanで通じるはずなのに,わざわざsouth koreanと言っているのが興味深い。

軽い話をしたいのだが,彼はどんな話も韓国の経済・政治・社会状況と強引に結びつける。やたらと「あの都市の人は…」「あの世代は…」とか,「勝ち組・負け組」という言葉を使う。ステレオタイプ的なものの見方をしている人だと思った。また日本のことにかなり関心があるようで,彼個人としてでなくひょっとすると韓国人は日本人よりも日本の政治に関心があるんじゃないかという気がした。

以下は覚えている会話の応酬。括弧内は私の発言。

結婚しているか?→(してる)→自分は独身だ。勝ち組だな,どこで知り合った?→(大学)→どんなデートをしている?

韓国には観光都市がほとんどない。ソウルかチェジュくらいしかない。→(え? じゃあ釜山は?)→釜山はギャングスターの街だ。ヤクザもいる。日本のヤクザシティーはどこだ?→(??? 分からないな…)→ある都市(忘れた)では市民が政治デモをやって,それがまるで徘徊するゾンビみたいだったからラクーンシティ(ゲーム『バイオハザード』に登場するゾンビが徘徊する都市)と呼ばれている。韓国の都市にはそれぞれニックネームがあるが,日本にはあるか?

クネ(パク・クネ)もアベ(安倍晋三)も同じ穴のムジナだ。韓国の若い世代は右翼活動に熱心,年寄り世代は北朝鮮が崩壊することを祈っている。くだらない。

日本は非常に長いスパンで変化があった。だけど韓国は非常に短いスパンの間に色んな変化があった。それに着いていけていない。

といった調子だった。

私は韓国の普通のことを聞きたくて,彼が経験したであろう徴兵生活のことについて訊いたり,最近観た韓国映画の「アジョシ」「王になった男」が面白かったと伝えたが,これらについても結局韓国の政治や社会の話になってしまった。

折しも日韓関係が険悪になっていた時期で,お互いに何を話したらNGかということを共有していたので,そのへんの立ち入った話にはならなかった。つまり東アジアの国としてプロトコルを共有しているということになる。フランス人やスペイン人などと相席になってしまっていたら,何を話したらNGかを知らないため非常に難儀したはずだ。コミュニケーションに関していえば「何を話せばOKか」よりも「何を話したらNGか」を知っているということのほうが重要だということに気がついた。

彼はハノイでホステルに泊まったそうだ。周りは欧米人ばかりで英語力の問題でコミュニケーションが難しく,孤独を味わったそうだった。同じホステルのフランス人女性がバイクで転んで左腕をけがした。ずっと雨が降っていて寒かったそうで,この寒さは自分も経験した。

ともあれ,ベトナムで韓国人と英語で会話・相席で食事するという貴重な経験をした。食後に「良い時間を過ごせたね」と握手を交わして別れた。

しかし,どこをどう調べても2名からの注文ということは説明がなく,単に一人ずつコース料理を提供するのが面倒だったのではと勘ぐらざるを得ない。ただ,そうだとしても今回の経験は一人旅でないと得られないものだったことは間違いない。

これが今日借りた自転車。食事を終えて再び乗ろうとしたとき,SUZUKIのパクリと思しき,日本会社風のエセロゴを発見してしまった。

昼食をとりおえたのが13:40頃。だいぶゆっくり昼食を摂っていたなぁ。ただ,あとは残り少ないので,まだまだ余裕はある。このあと六部跡,都察院跡などを観ようと思ったがど忘れしてしまった。

Lê Thánh Tôn通りを北上しLê Văn Hưuとぶつかったところの角に建つ鎮靖郡公府Trấn Tĩnh quận công。鎮靖郡公は明命帝の44(あるいは45)子阮福綿寅Nguyễn Phúc Miên Dần。

内部は喫茶店か。門は劣悪,屏風は小さい。祠堂は復元されたものだった。



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