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フエの陵墓・王府探索 2016年2月18~23日

武将軍墓

mộ võ tướng quân

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武将軍墓

ティエンムー寺院のすぐ東の田圃の中に怪しげな陵墓を航空写真で確認していたので,ティエンムー寺院までやってきた。

フエをツアーで訪れるとティエンムー寺院は必ず行程に入るため,今日も今日とてたくさんの観光客でひしめきあっていた。ただ,それにしては見応えもないので私は不思議に思っている。

そんなティエンムー寺院からすぐ隣の道に入るだけで,見事に誰もいなくなった。田圃の真ん中にトウモロコシ畑がいきなりある。あれが航空写真で確認したものだろうと確信し,亭の前に自転車を駐めて,あぜ道を進む。現地の人が私を見ていたとしたら,あの外国人は何をやっているんだろうと思っているに違いない。

華表柱もあるし,一般的な陵墓と同じ形式だ。ただ,この規模にしては大げさ過ぎるのが気になるところ。北からこの陵墓に入るらしい。トウモロコシは足の踏み場もないほどに植え込まれている。

来た道を振り返ったところ。奥には亭があり,その前に自転車を駐めてきた。今にも崩れそうな頼りないあぜ道だった。往復したら崩壊してしまうんじゃないかとちょっと心配になる。

この陵墓(?)の正面には鼎がある。

おっと,トウモロコシの隙間から見えたが,ちょっと嫌な予感がする…。

屏風に施されたこの装飾は阮朝の宗室に関わるものではない。そうであれば西暦ではなく年号で年を表すはずだからだ。

屏風の裏側には,龍でも鳳凰でも麒麟でもなく,クオックグーとフランス語で刻まれていた。1937年3月10日の日付がある。

屏風向かって右手には祠のようなものが。おそらく夫婦なのだろう。漢字を復元しようとすれば,右は「武文桐」という男性,左は「胡氏妃」という女性になるのだろう。武文桐は侍講学士だったようだ。男性は1947年に,女性は1975年に死去したそうなので,少なくとも1937年とある屏風よりもずっと後になって祀られたのだろう。ということは,この祠は後付けということになる。

今度は反対側,屏風向かって左手の祠。右側の男性は「武文霑」だ。左側の女性は…名前が男性と同じなのはどういうことだろう…。しかも2008年に死去したとある。先ほどの「武文桐」と姓もミドルネームも同じなので,兄弟なのだろうか。分からないことが多すぎる。

さて,城壁に囲まれた宝城を見てみよう。屋根の上に祀られている人物の肖像画があり,下には墓碑がある。まず「保大丁丑年春三月吉日造」とある。「保大」は阮朝最後の皇帝在位時の年号で,「保大丁丑年」は「保大12年」で1937年にあたる。屏風にあった1937年と一致する。

次に中心には「顕孝 皇朝喆授特進*武将軍*国中軍都統府都統掌特事武将公亗墓」とある。「皇朝」とあるので,阮朝の臣下であったことは間違いない。ということで,当サイトではこの陵墓を「武将軍墓」と呼称することにする。

そして最後に「孝子 文桐 文霑 孝女 氏* 氏倫 *拝 立」とある。「孝子」の「文桐」「文霑」は先ほどの祠で祀られている人名と符合する。つまりこの宝城に眠る「武将軍」の子で兄弟だったのだ。父は軍人で,息子は侍講学士という臣下の一家ということだ。

宝城。まるで家のようだ。阮朝の宗室以外にこれほどまでに立派な陵墓を見たことがない。阮朝がまだ存続していたなか,このような陵墓を造営できたということは,かなりの重臣だったということだろうか。

さて,これ以上みるべきものもないので,頼りないあぜ道を戻って自転車を駆ってさらに西進する。自転車のサドルは焼けるように熱かった。

ティエンムー寺院周りは観光客でいっぱい。タクシー,バイクなどの通行が激しいので気をつけて通過する。

下の地図の中央に,フォン河沿いに立つben xuanという庭園があるが,門が閉まっていた。金を払ってゆっくりするところのようだ。急ぐ旅なので今回はスルー。

文廟に来た。ここへは再訪となる。

この西隣(上写真の先)の武廟跡を訪れたいのだが,昨年はそこの扉が閉まっていて断念した。そこで文廟側からアクセスしようと再訪したのだが,写真のように植木で閉じられてしまっている。

正攻法でいこうとしたが,やはり全ての扉が閉まっていた。

世界遺産のマークがある扉。事務所のような建物。どこにも入っていけるような隙はないし,あまり無茶もできない。もう諦めよう。門をコンクリートで閉じてしまっているのは酷いと思う。

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