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フエの陵墓・王府探索 2016年2月18~23日

国叔郡公福隆公之寝

quốc thúc quận công Phước Long

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国叔郡公福隆公之寝

かろうじて舗装されている道を,さらに奥に行くとたくさんの牛と,それを連れたおじさんと行き交った。笑顔で頷くと頷き返してくれた。


またこういう道か…。ドロドロだ。この先にはGoogle Mapsで名前は分からないものの,陵墓らしきものがある。

航空写真を見ると,田圃と林に囲まれてはいるが,田圃に沿ってかろうじて道があることが分かる。それを辿ると,陵墓のすぐ近くまで近づくことができる。Google Mapsのアプリを見ても,この道だと言っている。進もう…。

道はぬかるんでいて,石が露出しているところもあり,かなり危険だ。

そこを抜けるとあぜ道に出る。轍を見るとバイクが往来していることが分かる。ただ,この先に田圃があるということは人が入っているということだから,当たり前ではある。轍は二つあるが,さすがに自動車は入ってきていないだろう。

だいぶ進んだところに他人の自転車が駐まっていた。誰もいないと思っていたのでビックリしたが,周りには二人ほどが会話をしながら田圃で作業をしていた。驚かさないようにしよう。そしてこの辺りでGoogle Mapsは最も陵墓に近づいたことを示していた。つまり道はまだ先があるが,ここを進んでしまうと陵墓から離れてしまう。左手の方に陵墓があるのだが,小高い丘になっている。おそらくこの上に陵墓があるのだろうが,どうやって登ればいいか…。少し回り込むと,思わせぶりな進入を阻むゲートがあった。おそらくこの先だろう。脇道を使って突破する。

左写真の奥に見えるのが思わせぶりなゲート。突破して少し歩いたところで振り返って撮ったもの。右写真は,小高い丘。この先に陵墓があるはずだが,今はまだ見えない。

わずかに残る獣道程度の道を辿って丘を登ると,陵墓の一部が見えてきた。この瞬間が陵墓巡りで一番楽しいと思うときだ。

変な補修は入っていないように見受けられる。門はなくいきなり屏風がある。皇帝クラスの陵墓ではなさそうだ。低い城壁が外側を囲っている。屏風表のモチーフは麒麟だろうか。

残念ながら屏風の裏には何もない。


城壁は三重になっているようだ。左写真は中間の城壁,右写真は宝城を囲む内側の城壁。

文字資料を発見。陵墓の主は壬午(1761)年11月7日に生まれ,嘉隆18(1819)年6月8日に死去したとのこと。広南阮主9代目武王Vũ Vương阮福濶Nguyễn Phúc Khoátの第18子であるという。

阮福濶が9代目というのは誤りで,本当は8代目。その第18子は阮福昇Nguyễn Phúc Thăngである。写真にquốc thúc quận công Phước Longとあるのは名前ではなく,その封号「国叔郡公」と「福隆公」の「福隆」を指すようだ。母親は右宮嬪である宋氏絹Tống thị quyến。

宝城の前に小さな碑亭が付属している。碑には「福隆公之寝」とあり,これは当時からの碑かと思う。

奥の屏風。外の城壁の屏風には何も無いようだが,内側の中央下部には少しでっぱりがあり,摩耗していてよく分からなくなっているが,何かあった模様。

少し先には個人ものと思しき新しめの墓があった。陵墓の前のスペースだけ不自然に草などが除去されているように思う。ある程度の管理はされているのだろうか。

陵墓の前には,ため池が。山を削って作ったような広いダートがあり,陵墓に向かって道が延びている。ため池は,この陵墓に付属する湖ではないか。それを埋め立てて無理矢理道を繋げたような感じがするなぁ。この道を辿れば大きな道に出るので,このルートで陵墓にアクセスするのが正解だったか…。


田圃で作業中の2人はこちらに気づいていないようだった。自転車は一台しかなかったから,どうやってここまで来たのか不思議に思う。ベトナムの人は基本的に歩かないが,彼らは歩いてきたのだろうか。

陵墓の前で石垣を見つけた。遺構だろう。


横に並んだ4つの輪のようなものを発見。碑の中段には「Nguyễn Phước...」とあるが,誰もがファミリーネームとミドルネームが「阮福」だから誰なのか,これだけでは特定できない。なぜラストネームが「...」と省略されているのだろうかと思っていたら,その下に「霊4つ」とあるようなので,ここに祀られている阮氏の王族4人をまとめて記すためにラストネームを省略していれば合点がいく。なんという横着…。全員分刻めばいいものを…。


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