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フエの陵墓・王府探索 2016年2月18~23日

永祥郡王之寝

Vĩnh Trường Quận Công

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永祥郡王之寝

ドロドロ・石ででこぼこの,あぜ道に毛が生えた程度の道を自転車で戻る。今度は下りなので恐い…。

行きには気がつかなかったアヤシゲなもの。あの程度の広さでは,阮朝に関係する陵墓ではないだろうし,あぜ道を辿るのも難儀だし,時間もないため今回はスルーするが,周りが田圃だというのにあそこだけ残され,しかもわざわざ植えたような芭蕉のような植物で囲まれているというのがすごく怪しい…。

まばらながらも人家が建っている。子どもは自分を見かけるなりhello攻撃をしかけてくるが,大人でさえ,自分を珍しがっているようだ。ただ警戒しているのではなく,笑顔で頷くと笑顔を返してくれるので嬉しい。人家の前を通ると,炊飯のために薪を焚いているのか煙い。家の入口に「căn bản」と題した看板のようなものがあった。ひょっとすると「看板」のベトナム語読みなのかなぁと思っていたら,帰宅後調べたところ「根本」という意味だった。残念。

Sông Tả Trạchという河沿いに出て来た。この辺りは観光客は滅多に訪れない。ましてや自転車でなど…。

フォン河を渡って南岸に向かう。向こう岸には阮朝の初代皇帝ザロン帝の陵墓をはじめ,多数の陵墓が存在する。昨年ようやくしっかりした橋が建造されたおかげで,車も通れるようになったが,それまではこの浮き橋を渡るほかアクセスの方法がなく,したがって観光客はバイクタクシー,あるいは自転車を使ってザロン帝廟へと向かっていた。それ以前には渡し船があったという。向こう岸でバイクタクシーに乗って向かったそうだ。今回はこの橋を初めて自転車で渡ることになる。2年ほど前にはここをバイクタクシーで渡った。

この橋の正式名を知りたいが,看板には「cầu phao đi Lăng Gia Long」(ザロン帝陵への浮き橋)とあるだけだった。その下には「各種自動車禁止」とある。

去年行った長清陵Lăng Trường Thanhへの案内板。去年はこの手の看板を見かけなかった。車が通行できる橋が架かったことで,意識的に各陵墓への案内をし始めるようになったのだろう。

まるで旧共産圏から譲り受けたような車。さすがに現役では無いだろうが,味がある。

河の眺めが良いので写真を撮っていると,遊んでいる子どもがhello攻撃をしかけてきた。

さて,Google Mapsによると個人宅の入口の先に陵墓があるらしい。Google Mapsが示す方向には林があり,先が良く見えない。ただ,それとなく獣道がある。多くの陵墓を探索していて分かったが,たどり着くのに道が全く無い陵墓というのは滅多にない。この先で間違いないだろう。

獣道を辿り,林を抜けて足元に落としていた視線を真正面に向けると,崩れた陵墓の一部が目に入ってきた。この時誰もいないのに「すげぇっ!」と叫んでしまった。陵墓探索の醍醐味はこれだ。

陵墓の入口は反対側だが,獣道の先は陵墓の崩れた城壁隅に向かっている。きっとここが入口として機能してしまっているのだろう。自分もそれに倣う。

外側の城壁と同様,内側の城壁隅も崩れており,宝城が剥き出しになっていた。全体を見渡すと,城壁は二重になっているようだ。レンガ造りになっていて,おそらく全てが建造当初のもので,余計な手は入っていないようだ。

宝城を中心とした城壁の内部。

内側の城壁の奥の屏風には,何か装飾が施されていたと思しき跡がある。大半は剥離しており,レンガがむき出している。右写真は,外側の城壁。屏風があったのかどうかすら全く分からないほど崩落している。

ここで一端外に出てみよう。

これがこの陵墓の正面。しっかりとした前庭があったことが分かる。かろうじて階段は残存している。階段の先は林になっており,今では正面側からこの陵墓にアクセスするのは困難だ。陵墓を囲むように池があるが,この陵墓に付属していた月湖だったかは不明。

前庭の左右にも,しっかりとした城壁がある。

アーチ型の門はない。外側の城壁はレンガが剥き出しとなっていて,ほとんど崩落している。

屏風の真ん前に,この陵墓の埋葬者がはっきりと示されていた。ただ,屏風の前に建つのは不自然であり,墓碑名標は後付けであろう。「永祥郡王之寝」。永祥郡王Vĩnh Trường Quận Côngとは,阮朝二代目明命帝の第5子阮福綿宏Nguyễn Phúc Miên Hoànhの封号だ。彼は賢妃呉氏政の子で,荘穆との賜号を与えられた。

こちらの屏風にも何か装飾があったような痕跡はあるものの,ほとんど崩落しており,一部はレンガが剥き出しになっている。銃撃を受けたと思しき穴も見える。フエはベトナム戦争時にテト攻勢で激戦となったので,ここ永祥郡王之寝でも戦闘があったのかもしれない。

この写真の手前奥の林を降りて,陵墓の完全に崩れた箇所から入ってきた。


外側と内側の城壁の間は雑草が生え,荒廃していた。


さて,もう戻ろう。この林のうっすらと見える獣道をのぼろう。


名残惜しくて振り返って何度も陵墓を撮影してしまった。


さて,もう遅い時間なので最後にミンマン帝廟を訪問して終わりだろう。西へと向かって自転車を漕ぐ。非常にのんびりとした風景だ。

昨年訪れた長基陵Lăng Trường Cơの近くの小学校。今日は平日だからか,まだ子ども達がいる。その手前を水牛たちがのんびりと移動していた。道を挟んで小学校の向かいにはサッカーコートがある。ここで体育の授業をやったりするんだろう。ただ,今はたくさんの放し飼いのニワトリがコート内にいた。

いきなり現れた小さな華表柱。周りを調べても対になっているはずのもう一つの華表柱が見当たらない。一体何なんだろう。


ミンマン帝廟方面へと連絡する立派な橋。昨年に完成したばかり。一年前は車で渡河したが,今回は自転車で。


この橋には「Cầu Hữu Trạch」という名前が付いている。Sông Hữu Trạchという河の名をそのまま橋の名としている。先ほど浮き橋で渡ったSông Tả Trạchという河とこの辺りで合流し,フエ市内を新市街と旧市街とに分けるフォン河となって,その先で海へと流れている。「Trạch」がどの漢字に復元できるかは不明だが,「Hữu」は「右」の,「Tả」は「左」のベトナム読みで,それぞれの河と左右の関係は,南を向いた時の位置,つまり皇帝が南面したときの位置となっている。

下の地図を見れば分かりやすいだろう。


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