慶美郡公陵
荷物を置き,少し身支度を調えてから自転車で繰り出そうと考えていたところ,部屋の電話が鳴った。ツアーデスクからで,なんでも「自転車の時間だから来い」って言っている。今しがたチェックインしたばかりなのに…。すぐに繰り出せるわけないじゃないか。たぶん客のチェックインステータスがツアーデスクに共有されていないんだな。なぜリゾートでこんなに急かされるんだろう…。客の都合次第でいいじゃないか。…とまぁ思っていることを伝えてもしょうがないんで,「今すぐレセプションに戻るから待ってくれ」とだけ言って電話を切った。
google mapsの衛星写真で陵墓と思しきものにあたりをつけ,そこに実際行くため,今回フエに滞在することにした。大きさや形状から陵墓であろうと判断したもの,裏付けがあって陵墓であることが確定的なもの,怪しげなものと3つのレベルに分け,今回はそのうち前の2つを巡ることにした。だから,史蹟巡りではなく史蹟探しなのだ。
今回フエ郊外のpilgrimage villageに宿泊したのは郊外を自転車で回る必要があり,その起点として便利だったからで,リゾートに滞在することを第一目的にしていたわけではない。プール・ヨガ・スパなどが揃っているが,そのどれにも関心がない。3つのバーがあるが,バーで飲む習慣もない。リゾートに泊まりながらも,昼間は自転車で走り回るという大きな矛盾を抱えたフエ滞在。自分でもこの先どうなるのか分からない…。
とりあえず現時点では以下のようなスケジュールを考えている。
一日目2/28(今日):このあとすぐ自転車でホテルの南方面の史蹟を探す。たぶん日没まで
二日目3/1:一日中自転車でホテルの西・北方面の史蹟を探す。たぶん昼すぎまで
三日目3/2:ホテルのシャトルバスで市街に出て,そこで自転車を借りて市街を回る。たぶん昼すぎまで
四日目3/3:昼までホテル滞在,チェックアウト後ホテル周辺の寺院を自転車で回る
どう過ごすかをよく考えなければならないのは滞在最終日となる四日目。というのもチェックアウトタイムは12時なのに,ハノイ便のフライト時間が21:15だから。おそらく三日目までには行くべきところは尽くしており,四日目に午後寺院巡りを予定しているのは,ただの埋め草。チェックアウト後の行き場がないからそうしようと考えているだけだ。リゾートでゆっくり過ごすことになるのは,今のところ四日目の午前だけだろう。
14時頃,まだまだ午後の早い時間に自転車でスタートできた。
ホテルを出てすぐのところ,とある建物の敷地から陵墓とおぼしきものへとアクセスできそうなので,そーっと入ってみたが,建物から大声で注意された。ベトナム語なので分からないが,おそらく「入っちゃダメだ」ということだろう。大人しく待って,出てきた男性と対峙する。英語はあまり通じないようだが,この先に大きな墓があり,それを写真に撮りたいだけなのでお願いします,と伝えたが,それでもNoと言われ続けた。あまりしつこくしても悪いので,諦めて出て行く。sorryと伝えて立ち去った。
上の地図の中央に,田んぼに囲まれた人工物が認められ,陵墓ではないかと踏んでいたのだが,ただの建物の屋根が光を反射しているだけなのかもしれない…。そのすぐ南側のコの字型の建物は学校だった。
次に大通りを外れて,ローカルな道を進んだ。
上の地図の中央に木々が集まっている箇所が陵墓ではないかとの目星をつけていた。というのも,すぐ東側に月形の池があったからだ。いわゆる「月湖」は陵墓の正面に設けられることが多い。ただし放生池の可能性もあり,その場合は寺院かもしれない。木々が集まっている箇所のすぐ南は寺院であることは確実なのだが,月湖とおぼしき水地は軸からずれており,その寺院のものではない。
14:25,まず見えてきたのは,ターゲットのすぐ南に位置する寺院。
そしてそのすぐ南,つまり向かって右手には方形の池を擁する施設。先には壇があり,石碑を擁している。寺院ではないようだが,陵墓でもない。門の表柱に刻まれた文字を読めば,おそらく寺院に関係するものだろうと思う。
最初に目に入った寺院の先も撮影してみた。本堂らしきものが見えるが,門は閉ざされている。目的が違うのでこれ以上こだわらない。
寺院のすぐ北側には,私が望んでいたものが待ち構えていた。芭蕉の木に埋もれつつあるが,幡龍を左右にしつられた階段は阮朝宗室に関係する施設であることを物語っている。額にはクオックグーで「Lăng Ngai Khánh Mỹ Quận công Hồ Đắc Trung 1861-1941」との表示が。漢字表記でないことから,この門がそれほど古いものではないことが分かるが,Lăng(陵)・Quận công(郡公)とあるので阮朝宗室の誰かが祀られているかと思うのだが,国姓であるNguyễn(阮)姓ではなくHồ Đắc TrungというHồ(胡)姓の名が刻まれているのが不可解ではある。
…と,よく考えたら,「郡王」ではなく「郡公」だ。公は臣下に与える爵ではないか。
門の額に謎の名前が刻まれてはいたが,その向かいに碑亭が建っているので,やんごとなき人物が祀られていることを確信した。碑亭は畑に囲まれており,農作業にいそしむ人々がいた。不思議そうな顔をして私を見ていた一人の農夫に陵墓を指差して頷くと,笑顔で頷き返してくれた。こういうのは歓迎されているようでとても嬉しい。碑亭の周りには農作業で使うとおぼしきビニール袋などが散乱しており,雑然としていたのは残念だった。碑亭の奥には,地図上で確認していた月湖がある。
文字が刻まれているのは,陵墓とは反対側。「保大十六年(1941年)春」とあり,額の没年と同じ年となっている。最後に刻まれた名は「胡得愷」。Hồ Đắc Trungの子だろうか。石碑の上には何のためかは不明だがゴムホースがかけられており,扱いは雑だった。
帰宅後,胡得とHồ Đắc Trungをキーワードにして調べてみると,胡得忠という人物がヒットした。生没年が額と同じ1861-1941(3/21=春)なので間違いない。阮朝の官僚であり維新帝の輔政大臣だったという。ではなぜ胡姓でありながら阮朝宗室のような陵墓かという疑問だが,母親が従善王(明命帝の第10子,阮福綿審)の娘だったからのようだ。そしてKhánh Mỹ Quận côngは,彼が81歳で死亡した後に送られた号である慶美郡公なのだろう。異姓というのに郡公号を賜与されるというのは,阮朝としては珍しいことなのか,それとも異例なのかは判断がつかない。ただ,かなりの重臣であったことは間違いない。そして胡得愷Hồ Đắc Khảiはやはり得忠の子で,やはり阮朝の官僚(総督)だった。
門の扉越しに覗くと,内部はかなり広いことが分かる。奥中央の扉が陵墓本体だろう。皇帝でもないのに,前庭が三段になっているのがすごい。
扉には鍵がかかっているが,門の右手には人が出入りしているような通り道があったので中に進入した。
中央を貫く道の左右に,小さな墓が並んでいるのが認められた。慶美郡公胡得忠の一族だろうか。
こちらは銘板に名無し。
立っている石版タイプ。いずれも漢字表記ではない。奥の最も目立つHồ Đắc Sơnは「胡得山」かな。1956年生まれとあり,かなり最近だ。漢字表記が無いのは当たり前か。他は,右奥tâm(心?),前列左からhổng(鴻/宏?),đạt(達?),tánh(???)。
多数の墓が集まるエリア。中央左右は銘板に名無し。中央奥はkhải(愷)で1894-1948。比較的遅い時代の人ではあるが,漢字表記ではないし,そもそも西暦を使って表している。thượng thưは「尚書」。財部尚書だったという。その左はbà Hồ Đắc khải(胡得啓?の祖母),右はông Hồ Đắc tinh(胡得精?の祖父)とある。手前の苔で緑色になっている銘板にはLê Thị Tuất(黎氏恤?)とあり,誰かの奥さんのようだ。
胡得忠の胡得愷以外の子として,胡得恩Hồ Đắc Ân(薬科進士),胡得怡Hồ Đắc Di(医学),胡得憐Hồ Đắc Lân(技師),胡得恬Hồ Đắc Điềm(律科進士),胡得恕Hồ Đắc Thứがいた。娘として胡氏芷Hồ Thị Chỉ,胡氏荇Hồ Thị Hạnh,胡氏芳Hồ Thị Phương,胡氏萱Hồ Thị Huyênがいて,うちChỉは啓定帝の恩妃,萱は礼儀工作部尚書阮福膺蔚Nguyễn Phúc Ưng Úyに嫁いだという。
個人の墓でもよく見るタイプ。2017年没ということでかなり新しい。お供えもの用の皿はロッテリアのそれだった。
亀甲墓のようなタイプ。
キリがないほど墓がある。いずれも漢字表記は無く,それほど古いものは無いようだ
陵墓奥の門。階段の左右には,かろうじて蟠竜かと思われるような聖獣が。
屏風の前に漢字表記の銘板。保大Bảo Ðại16年2月28日とある。西暦で1943年。保大は保大帝の退位により20年目で終わった。阮朝の最末期だ。
屏風の向こうは巨大な円墓になっていた。
そのさらに奥に立つ銘板。刻まれている「保大辛巳年」は保大16年・1941年。胡得忠が右,左にその妻が刻まれている。