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フエの阮朝史跡探し 2018年2月27~3月4日

玉琳公主祠

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玉琳公主祠

予定では市街まで出て,そこで昼食を摂るつもりだったが,わざわざ市街に出てもまた郊外へと戻る必要があるし,空腹過ぎてそこまでの体力がない。市街のレストランで食事を摂る予定を立てていたのは,どうしてもホテルやホテル周辺のレストランに偏ってしまい,飽きるのではないかとの不安からだが,余計な体力を使うので素直にホテルまで戻り,昼食を摂ることにした。

1時間の昼食と休憩を予定。ホテル入口の配車係にそう説明し,ホテル敷地内に入ると,めざとく私を担当しているスタッフが駆け寄ってきた。1時間休憩をとることを伝えると,自転車の時間は16時までだからとうるさく言ってきた。こういうきっちりとした管理は,せっかくリゾートに来ているというのに窮屈な思いがして不快な気持ちになる。分かっている,問題ないよと伝えておく。

ホテルのじゅんれいレストランで昼食を頂く。この時間はまだ早いのか,誰もいなかった。みんな市街に繰り出しているからここで昼食を頂くことはないのかな?


ブンボーフエである。これがうまいのだ。暑くてもつるっと頂けてしまうのが良い。部屋番号を伝え,支払いはチェックアウトのときにまとめてもらうことにした。


食事を終えて自分のバンガローに戻ろうとしたら,絶賛掃除中だった。しょうがない,戻って自転車を再開しよう。

ホテルから市街に向かって北へと自転車を漕ぐ。

12:31,万福寺Chùa Vạn Phướcの入り口に到着。


こちらが山門。万福寺の墓地の隅に公主の墓がある(p.170)という情報があったのだが…。


本堂。なかなか立派な門だが,史的価値はなさそう。正式名は「萬福弥陀寺」というらしい。浄土系か。その上の3文字が読めない。デーヴァナーガーリー系の文字にも見えるが,右の文字はそうではなさそう。本堂は開いていないし,用があるのは墓のほう。私以外に参拝客はいない。


敷地内に墓が並んでいるのは日本の寺院と同じだが,やっぱり形が違う。これかな? と思ったのだが,やたらと文字が刻まれており,宗室の墓とは思われない。


仏塔のような墓は,おそらく無縫塔,つまり僧侶の墓だと思われる。宗室の墓ではない。


墓地は広く,全てを回りきれない。どのようにアクセスしたら良いか分からない区画もある。日差しを遮るものが一切なく余計な体力を使いそうだったので,あっさり諦めた。また「万福寺に向かう道の途中」に「安福郡王」の墓があるとのことだが(p.171),位置は分からなかった。衛星写真に写っているのならまだしも,どこにあるのかが分からないと,なかなか難しいものだ。


万福寺から東へ移動し,上記地図真ん中の林のあたりを目指した。Wikimapiaには「Lăng cụ Ngô Đình Khả」との名で登録されている建造物がある。詳細不明ではあるが,「Lăng」は陵との意味なので,陵墓の一つではないかと踏んだのだが,このあたりは民家が建ち並ぶ行き止まりの多い地区で,どうしたらアクセスできるか不明。Ngôは「呉」のことなので「Ngô Đình Khả」で人名かと思う。とすれば阮朝宗室ではないし,結局見つかなかったので諦めた。

12:57,ふと北側に目を向けるとこれこそ歴史のありそうな洋館。帰国後調べたら,Trường Mầm Non Hoa Hồngという名のキリスト教系の幼稚園らしい。


市街地に出てPhan Đình Phùng通りを進む。ここは以前王府めぐりをしたところだが,見逃しているものがあるかもしれないと再びやってきた。

13:15,Phan Đình Phùng通りの167番地。俗悪な字ではあるが「玉琳公主祠」とある。どの皇帝の娘を祀っているかは不明。今回初めて発見した。祠堂はトタン屋根になっている。


そのすぐ隣りの安定宮。今日は閉まっていた。ひょっとすると反対側,北側からは入城できたのかもしれない。ともかく既に訪問済みなのでこれ以上拘らない。何度見ても立派だと思う。


これ以上市街地へは向かわず,南へと移動。