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フエの阮朝史跡探し 2018年2月27~3月4日

旧市街王府探し

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旧市街王府探し

3/2。6時に起床。三日目の朝は霧だった。


ということは日中は晴れるということで。30℃超えか…。



霧ということは湿度100%ということで心配したが,昨日の朝に洗濯したものはだいたい乾いていた。良かった。今日帰ってきたらまた洗濯するつもりでいる。

今日の朝は鶏肉のフォーとベトナムのフランスパンサンドイッチバインミー。どちらもリゾートホテル仕様ということで,かなり上品過ぎるが,うまいのはうまい。


部屋には毎日二本のペットボトルが備え付けられる。一昨日までは右の青い通常デザインラベルが提供されていたが,昨日からは花とランタンの正月デザインラベルとなっている。LaVieはネスレの商品だが,ベトナムで一般的に買える代表的な水である。ホテルで自転車を借りると水が一本付いてくる。この季節は乾季にあたり,また一年で最も気温が低くなり(とはいえ30℃を超えるが)かつ湿度が低いため,店で水を追加して買わずとも間に合ってしまう。もちろんベトナムの水道は飲めないので,このボトルが命になるのだが,歯磨きの時に口に含む水もこれを使っている。



今日はホテル周辺ではなく,市街の王宮周辺を自転車で巡る。ホテルから自転車を借りて向かうと市街までの距離が大変なので,ホテルのシャトルバスを使って市街まで出て,市井のレンタサイクル屋で自転車を借りたいと思う。

このリゾートに唯一居る日本人スタッフが「ようやくお会いできました」と挨拶してくれた。「お忙しいようなので,これまでご挨拶できませんでした」とよく喋る。シャトルバスの時間が気になるので「それはそうと,シャトルバスは?」と訊くと,私一人だけだという。なんと…。

8:30発のシャトルバスに乗って市街へ。たっぷり15分ほどかけて到着。

当初は街の自転車屋から借りようと思っていたが,3年前まで利用していたホテルで自転車を借りたことがあったので,そこで借りたいと思う。英語が通じるし,外国人慣れしているので何かと安心だろうと思ったのだ。

自転車を借りたいと言うと,快く応じてくれた。財布から金を出そうとすると「チェックアウト時に払えば良いから心配するな」と言ってくれたが,「実はここに泊まっていないんだ」と言うと,2ドルとパスポートを要求された。自転車のデポジットとしてパスポートを預かるという。まぁ当然の取引だな。ドルは持っていないので,5万ドンを払う。そのまま受けとってもらうことを期待していたが,えーっとと電卓で計算し始めたので,いやいやお釣りは要らないよと伝えた。

やはり自転車だけを借りに来る客というのは珍しいようで,どこに泊まっているかを訊かれた。実は2年前にここに泊まったことがあると言ったら喜んでくれた。今度ここにまた泊まりに来るよと伝えた。

数分後,自転車がやってきた。おそらく街の自転車屋が配車したものだが,ホテルを通すことで安心を得られるならその方がいい。また,パスポートを預けるなら,英語が通じて外国人慣れしているホテルの方がいい。

8:57,こぎ出してすぐのNguyễn Công Trứ通り。65番にphủ Lạc Hóa Quận Côngという名の王府があるというネット上の情報を頼りにやってきた。65というナンバーを持つ建物は見つからなかったが,おそらく王府かと思っているのが,奥の緑の堂宇(?)。どうやってアクセスしたら良いか分からず,この距離から撮っている。


phủ Lạc Hóa Quận Côngが「楽化郡公府」ならば,昨日の朝に訪問した陵墓に埋葬されている,明命帝の第15子,阮氏永所生の阮福綿宇Nguyễn Phúc Miên Vũのことだ。

ともかくも祀っている人の封号が見当たらず,確認ができない。王府には必ず備えられている門もないので,本当にここが楽化郡公府なのかも不明。これ以上どうすることもできないので次へ。

9:17,Nguyễn Sinh Cung通り139番。


右の門柱に埋め込まれた銘板には「tuy lý tướng? phòng/tự đường」とある。「tuy lý」は「綏理」と思われ,であれば明命帝の第11子,婕妤黎氏愛所生,綏理王Tuy Lý Vươngとの封号を持つ阮福綿寊Nguyễn Phúc Miên Trinhだ。続く「tướng? phòng」が意味不明だが,次の行「tự đường」は「祠堂」なので,綏理王の王府と思われる。

それにしても「祠堂」とは言いつつ,内部の建物は完全に洋風で興味深い。門の柵は開いていたがプライベートな空間だと思い,進入は遠慮した。

3年前にもこのNguyễn Sinh Cung通りの王府を探索しており,道の反対側である140番に綏理王祠を見つけている。そのときは139番にまったく気がつかなかった。

また102番地に小草亭という建物があり,銘板に「Tuy Lý Vương Phòng(綏理王房)」とあった。他に綏理郡公祠Phủ Tuy Lý Vươngというものもあり,この付近は綏理王に関する堂宇が散在している。

なおNguyễn Sinh Cung通りのあるこの地区は「Vỹ Dạ」と言われる。

綏理王は詩人であり,「葦野」との号を持っていたという。葦野をクォックグーで表すとVỹ Dãとなる。この地区の名が綏理王に由来していることに今回ようやく気づいた。これだけ綏理王にちなむ堂宇があるのだから,自然なことなのだろう。

9:23,Nguyễn Sinh Cung通りから少し逸れて,Thanh Tịnh通り43番。祀られている人の封号はどこにも刻まれていないが,中に立つ建物の屋根が古風であること,その手前正面に俗悪ながらも屏風があることから,ここも王府ではないかと思う。


ここは事前に情報を仕入れていたのではなく,他のところに向かう途上,全くの偶然で見つかった。Vỹ Dã地区には位置不明の王府がいくつかあることが分かっているが,全ての通りを走り回るのは事実上不可能で,こうして偶然に発見できるのは幸運といってよい。

9:24,こちらが目的地であったÐình Lại Thế。1741年に建造された亭Ðình(村の祠堂)でフエでもかなり古い建造物。「Lại Thế頼世」はこのあたりの地名。日本の字のようなもの。


阮朝にかかわる史跡を探索しているというのに,王府でも陵墓でもない,本来ならはずれである亭を目的地にしたのは,この頼世亭が見事な建造物だからだ。あず正面の屏風表には獅子が刻まれている。

屏風背後は龍か。立派な鼎もある。


亭本体。なるほど確かに立派な建築だと思う。ただ屋根が重厚過ぎるからか,中央がやや沈んでおり自重に耐えきれない様子で,事実柱でその重量を支えていた。私以外に人は居ないが,ローカルなホテルで配っているフエの観光マップには頼世亭がプロットされていることがあり,マイナーではあるものの観光地の一つではあると思われる。


道を挟んだ向かいには池がある。古くからこの池があるとしたら,村の人が集まるところだったと思われ,ここに亭が建てられたのは自然なことだろうと思う。


9:26,頼世亭のすぐ隣りの祠堂。立派ではあるが,額の文字を見ると「開耕」とあることから,王府ではないようだ。


そのまま北上して9:30,王府を発見。門には「tự đường quảng biên quận công」とある。中の堂宇には漢字で「廣邊郡公祠」とあり,なぜ門はクォックグーのみなのかと疑問に思う。廣邊郡公quảng biên quận côngは明命帝の第32子,貴人阮氏長Quý nhân Nguyễn Thị Trường所生の阮福綿家Nguyễn Phúc Miên Giaである。


Lại Thế通りの北端,Nguyễn Sinh Cung通りに合流するあたり。

綺麗すぎるほどに整備されまくった堂宇で,それ自体にはあまり興味を引かれないが,なぜか内部にベンチが据えられているのは興味深い。祭祀などの際には参加者が座るのだろうか。門の柵が閉じられているので観光客向けではないと思う。

なお,こちらも偶然見つけたもの。…こうなるとVỹ Dã地区をくまなく走ってみても良いかなと思い始める。次回フエに来ることがあれば検討しよう。

義興郡王房。義興郡王nghĩa hưng quận vươngは阮朝の祖先たる広南阮主太祖阮潢Nguyễn Hoàngの子阮福渓Nguyễn Phúc Khêであろう。広南阮主の一族の王府は初めてみたかもしれない。


俗悪な復元ではあるが,よく造られている。


9:36,綏邊郡公府。綏邊郡公Tuy Biên Quận côngは明命帝第53子で,婕妤Tiệp dư阮氏圓Nguyễn Thị Viên所生の阮福綿寵Nguyễn Phúc Miên Sủngである。門の柵が閉まっており,内部を伺うことはできなかった。市街から離れているためか,敷地が広く綺麗だ。


社会主義国っぽい国道49号線。


国道沿いには,長屋のような家が建つが,ほとんどが入居していない。箱だけ作って中身が伴わないのは社会主義の真骨頂だな。


それにしても煉瓦を積み上げて作っただけの家など,地震のない国だからこそ成立するのだろう。日本だったら一番に崩壊しそうだ。

その後,ほとんど外国人など訪れない村へと入った。みんな訝しんで見ている。川沿いの集落で,川の水で洗濯し,食器を洗っている。お世辞にも綺麗な川とは言いがたいが…。川の向こうに見えるのは寺院らしい。


どんどんローカルになっていく。対向車が来たら車はどうするんだろう…。


10:03,到着。市街からずいぶんと離れているが,これも王府の一つ。綏邊郡公府からここまで実に6km以上を走ってきた。王府というのに陵墓のような外壁があるのが面白い。


以前から存在は知っていたものの場所が分からず途方に暮れていたが,ようやく場所が分かった。しかし市街から遠く離れており,どうしたものかと思っていたが,今回フエ滞在時間を長くとったために自転車でも行けるのではないかと挑戦した。車で来るような距離ではあるが,先ほど通ってきた道は車の通行が難しそうだった。

銘板。1行目phủ thờ quốc uy côngのphủ thờは祠堂,quốc uy côngは国威公。2行目はnguyễn phúc thuầnは阮福淳。彼は太宗Thái Tôngとの廟号と孝哲皇帝Hiếu Triết Hoàng Đếと諡を贈られた第4代広南阮主阮福瀕Nguyễn Phúc Tầnの第4子。6行目のHiền Vươngは賢王の意味で,臣下からそう呼ばれていたらしい。


とすれば,ここは国威公を祀る王府かと思うが,最後の2行には彼の六世孫にあたる尊室説Tôn Thất Thuyếtのことが刻まれている。google mapsでは「phủ thờ quốc uy công」ではなく,「Phủ thờ Tôn Thất Thuyết」として登録されている。

門の柵が開いているというのに,この先に入らなかった。今思えば不思議なのだが,先ほどからじろじろと見られていて,後ろめたい気持ちがあったのだと思う。市街方向へと戻ろう。

10:34,Nguyễn Sinh Cung通りを南下せず,王宮方向へと向かう。写真はCầu Chợ Dinh橋の上から。


ここからはCầu Chợ Dinh橋の西詰め,フォーン河に出来た大きな州であるPhú Hậu・Phu Hiep・Phú Cát地区の王府を確認していく。通りと番号のみ分かっており,そこにあれば万々歳だが,無ければ「無かった」ということを確認できるので,それはそれで良い。

WebでNguyễn Chí Thanh通りの96番に「phủ Tuy An Quận Công(綏安郡公府?)」という王府があるとの情報を得ていたので探したが,96番には何もなかった。その隣りの98番に建造物があったので撮ったが,王府にありがちな屏風はないし,祀っている人の封号もない。なんてことはない喫茶店のようだった。


ちなみに綏安郡公Tuy An Quận Côngならば,明命帝の第41子,麗嬪Lệ tần阮氏翠竹Nguyễn Thị Thúy Trúc所生の阮福綿㝓Nguyễn Phúc Miên Khápである。香水縣居正總楊春社に埋葬され,香茶縣富春總陽春社に祀られたという。

Nguyễn Chí Thanh通りの76番。78番に王府があるというWebの情報に基づいてやってきたのだが,隣りにあるはずの王府がない。78番という看板もないので,76番のある建物を撮っている。phủ Cẩm Giang Quận Côngという名の王府があるとの情報だった。ここも空振りのようだ。


Cẩm Giang Quận Côngとは錦江郡公で,明命帝の第59子,貴人杜氏心所生の阮福綿𡩄Nguyễn Phúc Miên Vãnである。香水縣居正總平安邑に埋葬され,香茶縣富春總東池左邑に祀られたという。

Nguyễn Chí Thanh通りの54番あたり。Webの情報ではphủ Phúc Lộc Trưởng Công Chúaがあるとのことで,柵は閉まっていて封号の名も門にないが,奥に屏風があるので,おそらくここは確かに王府跡だと思う。


Phúc Lộc Trưởng Công Chúaとは,Công Chúaは公主なので宗室の女性に違いなく,Phúc Lộc Trưởngそのままに相当する人物はいないが,Phúc Lộc Công Chúaは福祿公主で,阮朝初代嘉隆帝の異母妹(第8代広南阮主世宗Thế Tông阮福濶Nguyễn Phúc Khoátの子興祖Hưng Tổ阮福㫻Nguyễn Phúc Luânの次女)の阮福玉瑜Nguyễn Phúc Ngọc Duである。

Chùa Ông通り15番。ここもWebの情報を頼りにしてやってきた。封号はないが,王府の門にありがちなアーチはある。phủ An Thành Vươngという名の王府だという。


An Thành Vươngは安城王で,明命帝の第78子,麗嬪阮氏翠竹所生の阮福綿𡫯Nguyễn Phúc Miên Lịch。先ほど空振りした綏安郡公の同母弟ということになる。香水縣楊春上社に埋葬されたという。

Tô Hiến Thành通りの18番。Webの情報では16番にphủ Hoằng Hóa Quận Vươngという名の王府があるということだが,16番という看板がなく,18番という看板がある門柱を撮った。奥に堂宇があるが,王府ではなさそう。多分phủ Hoằng Hóa Quận Vươngも無いのだろう。


Hoằng Hóa Quận Vươngは肇豐郡公で,明命帝第66子,才人Tài nhân陳氏清Trần Thị Thanh所生の阮福綿𡩀Nguyễn Phúc Miên Triệnである。香水縣居正總楊春社に埋葬されたという。

Nguyễn Du通り1番。6番を目指していたところ,全く情報のなかった1番に怪しいものを発見してしまった。クォックグーでNgô công từ đườngとあり「呉公祠堂」と復元できる。国姓の阮ではなく呉なので王府ではないだろう。


目指していたNguyễn Du通り6番。Webの情報ではCửa Đông Bắcだという。Đông Bắcは東北,Cửaは門なので,王宮の門があったのだろうか。


ここには阮朝の六部があったという。今は公園になっている。


11:14,いい加減に空腹なので,実に7年振りの利用となるレストランへ。店の前は土や砂が積み上がっていたのだが,今では周辺はすっかり様変わりしていた。入店しようとすると,店の前で待機していた警備員が自転車を預かるという。すごいな,高級店になると自転車を預かってくれるのか。


空腹ではあるが,昼食にはやや早い時間なので誰もいない。


7年前にも暑くて食欲がないので,シーフード焼きそばを頼んだのだが,今回も暑いのでエビ入り焼きそばとした。野菜たっぷりで美味しい。奥のバゲットもうまかった。


Vạn Xuân通りの51番。Webの情報ではphủ Cẩm Xuyên Quận Vươngという王府があるとのことだったが,どうみても王府ではない。空振り。


Cẩm Xuyên Quận Vươngは錦川郡王で,明命帝の第75子,宮人Cung nhân阮氏椿Nguyễn Văn Thị Xuân所生の阮福綿寄Nguyễn Phúc Miên Kýである。香水縣居正總月瓢社に埋葬され,富榮縣棠英總葦野社に祀られたという。

今度は一気に王宮の西側へと向かう。

観光客であふれるティエンムー寺院を過ぎ,Kim Long通りがVăn Thánh通りと名が変わったところで見かけた牛の放牧。奥は墓地になっているが,おそらくほぼすべて一般人の墓と思われる。


衛星写真で確認していたところ。この奥に怪しげなものがあると思う。


上記地図の中央,方形の黒ずんだ人工物を陵墓であろうと思っていた。すぐ南には方形の池があり,陵墓につきもののものではないかと踏んだのだが。

ほぼ外壁が崩れてしまっているが,おそらくこの古さならば史的陵墓ではあるだろう。問題は阮朝の宗室が埋葬されているかどうか。


屏風。何らかの彫刻が施されているのだろうが,ほとんど崩れていて分からないが,羽と足2つのようにも見えるので,鳳凰だろうか。ならば女性が埋葬されているのだと思うが…。


内壁,陵墓中央部。一切の文字資料がなく,結局は名称不明の陵墓ということになってしまった。


そのすぐ隣りには黒ずみ古そうな墓があった。墓本体が2つ並んでいるので,宗室の陵墓ではないだろう。


さて,とりあえず今日の探索はここまでとする。きびすを返して東へと戻ろう。

Cầu Dã Viên橋を渡り,フォーン河沿いの公園で。鶏と犬。おそらく昨年の干支である酉と今年の干支である戌ということなのだろう。


3年前にも見た屏風。すっかり俗悪に復元されてしまった。急いで回らないと,大変なことになりそうだ。3年前に見ておいて良かったと思う。


実は名称不明の墓のあたりで水が切れてしまい,かなりピンチ。どこかで水を補給しないとやばい,と思っていたら,フエ市内に自販機が設置されていたことを思い出した。ちゃんと冷たい水が出て来るのか不安だし,何よりちゃんと紙幣を飲み込んで,認識してくれるのか不安だったが,全て杞憂に終わった。出てきた水はキンキンに冷えていたし,5,000ドン札は問題なく認識され,自販機も正常動作した。というか,冷えた水が5,000ドン程度で買えてしまうのが驚きだった。街中では足下を見て1ドルとかぼる人もいる。スーパーでも8,000ドン程度してしまう。それも冷えていないものが。ベトナムも凄い時代に入ったと思う。自販機が普及すれば,問題のある価格設定も徐々に淘汰されていくのではないか。

既に今日の行程は終わっているので,自転車を返したいが,その前にコンビニでビールなどを買い求めてから。

自転車を返却しパスポートを受けとったあと,タクシーを呼んで貰ってホテルへ移動した。

ホテルに戻ったのは14時前。さすがに掃除は終わっていた。さっそく洗濯を済ませ,後はゆっくり過ごす。

先ほどコンビニで買ったベトナムのカップラーメンをおやつに頂く。イメージ写真に惹かれて買ったが,実際には具はほとんどない。


さて,明日は滞在最終日で,当初の予定は12時にチェックアウト,午後から自転車で周辺の寺院めぐり,19時に空港へタクシー移動,21:15ハノイに向けて出発としていたが,特に寺院めぐりに興味はなく,時間つぶしの意味合いが強い。いっぽう初日にいくつか時間切れで諦めていたものがある。全部回れば2時間ほどで終わると思う。寺院めぐりの替わりに12時からやってもいいが,涼しい午前中に終わらせたいという気持ちもある。そして何よりせっかくリゾートに来ているのに,最後まで忙しなく動くのもどうかとも思っている。全てはチェックアウトタイムが12時だというのに,フライトが21:15と遅いためだ。本当の当初は15時のフライトだったので,午前中ゆっくり過ごして12時チェックアウト後に空港に向かえば,最も無駄が無かったのだ。

そこで,レイトチェックアウトをリクエストすることにした。キリの良い18時まで滞在することにし,ホテルから空港へのトランスファーサービスをお願いする。そして自転車は8時からとし,午前中の早い段階で終わりとし,それ以後はホテル内でゆっくりと過ごすというわけだ。

ホテルスタッフに伝わりやすいように,時系列順で紙に書き出し,予定の変更をお願いした。すんなりいくと思われたが,部屋が満室ということで,次の客のために部屋を替えなければならないという。まぁそれくらいなら別になんともない。ホテルスタッフの英語がうまくないので,細かいことは伝わらなかったが,明日電話する,ということだったので,とりあえずは待つことにした。レイトチェックアウト自体は通ったようだった。

夕食はじゅんれいレストランでじゅんれい特製炒飯を。17.9万ドン。900円と,日本と変わらないか,それ以上の価格。一緒に注文したコーラは正月仕様だった。ワイングラスに注がれてしまい,かなり恐縮した。


ホテル敷地内に立っている灯りにはゲッコーが。