少林寺
続いて、まんじまるさんのご紹介で少林寺にやってきた。
少林寺は曹洞宗の寺。本尊は文殊菩薩らしい。
売り物の絵馬をひっくり返してみると、なんとこれ自体がはがきになるような設計になっていた。ただし、郵便番号が五桁というところが時代を感じさせる…。 |
さて、少林寺の見所は本堂ではない。境内の山に五百羅漢の石像が置かれており、そちらがメインとなっている。さっそく山を登ってみる。まんじまるさんは過去にこの寺にやってきたそうだが、途中までしか観ていないとのこと。
山に登ってすぐ、羅漢の石像が群をなしていた。ただ、ほとんどの羅漢の首が無くなっていて、無惨な状態。ただ、石像羅漢にはよくあることで、風化すると一番もろい首のところから落ちてしまうのだろう。 |
一瞬、自分の首を手に持っているのかと思わせた羅漢。びっくりするなぁ…。 |
顔を隠している羅漢を。左は落ち込み羅漢。右は居眠り羅漢。
これらも隠している羅漢たち。少林寺には何かとお茶目な羅漢が多い。
こちらはお茶目というより、落ち込み系。左は極度のシャイで、右は「もういやー!」という感じ。いったい何があったのだろう。
どうもここには顔の一部あるいは全体を隠した羅漢が多い。 |
これはお茶目系かな。くすっと笑っているようだ。どこか落語家風味。 |
何をしているんだろうと思ったが、頭をごしごしと洗っているのではないかという結論に。 |
文字が書かれた本や掛け軸を持った羅漢も居た。左は「富村念仏講中」と書いてあり、ある念仏講が寄進したものかもしれない。右は「福」の一文字だけが開かれている。次にはどんな字が続くのだろう。期待を持たせる。
左の羅漢、危ない! 口閉じて! 右の羅漢の膝に乗っているのは鍬形付きの兜だ。およそ羅漢には縁のないものだ。しかも羅漢はインド人であるはず。完璧に日本の兜を持って何をしているのだろう。
この羅漢が一番笑っていた。 |
手前の羅漢は完璧に頭部がない。横から見ると分かる。ただ、落ち込んでいるのではなく、足のヒモを縛り直しているのである。その奥に控えている羅漢はどうだろうか…。やっぱり耳を押さえているし、もう一体はなんと笠をかじっている! まるでえびせんべいのようだ。
なんと、そでを噛んで悔しがっている羅漢。羅漢というのは、こういう感情を超越した存在のはずなのだが、こういう人間くさい造形が、かえって親しまれる要素なのかもしれない。 |
やっと頂上にたどり着いた。なんとそこには一つの「須弥壇」が設けられていたのである。完全を意味する円形の台座の中央には釈迦如来、その脇侍に文殊菩薩と普賢菩薩。 そしてその三体の下の階層の回りをぐるっと囲むようにして並んでいるのは十六羅漢たち。新薬師寺の須弥壇のようだ。 |
普賢菩薩と文殊菩薩。普賢菩薩の象の鼻はもげていてバクのようだった。文殊菩薩の獅子もひょうきんな感じ。
須弥壇の裏には、わかりにくいが、三行書かれており中央には「五大力菩薩」、そしてその左に「八大龍王」、右に「八大神王」とある。 何を意味するのか、不明。 |
さて、ここで五百羅漢はおしまい。これからまた降りになるのだが、ここからは千体荒神が連なる。羅漢の二倍である。いったいどんなものが並んでいるのかと思っていたら…。
続いていたのは、必ずしも荒神の彫像ではなく、それを示す記号が掘られた石版だった。つまり、梵字や「荒神」というそのものの文字だった。ただし、梵字はカーンであり、不動明王と全く同一だった。
それらの石版はこのように並んでいた。なかなか壮観である。 |
ただし、たまに現れる荒神の彫像。なんだろうと思っていたら、降り道が折れるその地点に必ず置かれていることが分かった。つまり、道祖神や馬頭観音のように道の曲がる地点に置かれているのである。
これ、すべて「荒神」を書いたもの。右になるつれ分かるが、左のものはとても「荒」とは読めない。 |
左は「大荒神」と書いてあるらしい。右の最初の二文字が不明だ。
この光景はやっぱり凄い。五百羅漢が並ぶ様子は結構見慣れているが、文字の刻まれた石版がひたすら並ぶ光景は初めてみた。くらくらしそうだ。 |