江州巡覧 2007年7月14〜16日

長浜から木ノ本まで移動。さて、早くも今日最大のヤマ場がやってきた。ここでは、レンタサイクルで10km以上も漕がなくてはならない。依然雨は降っているが、朝ほど強くなくなってきた。予報でも昼ごろは少し弱くなるということなので、意を決して自転車に乗ろう。ここまで来てしまったからには、ここで諦めては勿体ない。

旅行前に確認したところでは、レンタサイクルは観光案内所で借りられるとのこと。その場所も駅裏と調べていた。

木ノ本駅もリニューアルしていた。観光物産を扱うような駅舎が付属している。野菜も売られていた。

さて、駅裏へ。しかし、調べていた場所には何もない。町営の駐車場があったので、そこで聞いてみると、ここは観光案内所ではなく、駅のほうにあるとのこと。また駅舎に戻るが…。

実は、先ほどの観光物産を扱うところが観光案内所を兼ねていたのだった。受付には先客があり、別の対応をしていた。待っていたが、要領が悪いようでなかなか終わりそうになかったので、掃除をしていた別の職員に声をかけ、自転車を借りることにする。

職員は、こんな大雨の中? というような困惑した表情で受付していた。とりあえずレインコートを取り出し、自転車をこぎ始める。ここでは2時間近くの余裕を持たせているが、既に無駄な時間をとられている。急がなくては。

まず向かうのは己高閣と世代閣という仏教美術収蔵庫。湖北には無住の寺や、既に荒廃し行きどころの無い仏像などが数多くあるため、もともとの安置場所を離れてこのような収蔵庫で保管されている。

駅前から北国街道へと漕ぎだしたところには、木之本地蔵院がある。一般的な観光寺院だが、ここにはいつでも来れるはず。目的を果たしてから、時間的にも体力的にも余裕があれば訪問しよう。

己高閣と世代閣へは、二つのトンネルを抜けると近いのだが、自転車では危ない。少し遠回りになるが、ひとつ先の道を行くことにする。

弱い雨だと思っていたが、いざ自転車で漕ぎ出すと強く当たってくる。バックパックが濡れないように前にかかえ、その上からレインコートを着ているのでとても漕ぎづらい。

また、自転車を漕いでいる以上、前からの風を受けるため、レインコートのフードが全く役にたたない。頭を濡れないようにするには、片手でフードを抑えながらこぐしかないのだ。そういった体勢で漕いでいれば、レインコートの裾から雨が入り込んでくる。その上通気性も悪いから、それほど気温が高くもないのに汗が出てくる。レインコートの中は、雨や汗やらで結局濡れてしまうのだ。

とりあえず折りたたみの傘も持ってきている。レインコートと併用しながらうまくやっていくしかない。なんでこんなことになってるんだか…。よくやるよと、自分自身に呆れてしまう。

レインコートが覆っていないひざ下や靴は、既にびしょ濡れだ。

ただ助かったのは、あまり起伏が無いということ。

途中、洞戸という地区があり、ちょっと寄ってみることとした。出発前からかなり気になっていた場所である。地図でみれば、山の谷間にある地区で、その最奥には神社のマークがあったのである。「洞戸」という地区名から、その最奥の神社の御神体というべきものはもしかしたら洞窟かもしれないとの推測を立てていた。

その建築がよほど興味深いものでなければ、普通神社はスルーするのだが、こういう事情だと別である。しかし、最奥の神社まで進んでも洞窟らしきものは無かった。まぁ、こういう地形そのものが「洞戸」ということなのかもしれない。

 
途中高時川を渡る。そこにかかる橋には、鐘が付いていた。引っかけるところには、謎の魚。仏像の里らしい。

己高閣と世代閣に近付くと、にわかに上り坂になってきた。このまま漕いでも体力を消耗するだけなので、自転車を置いて歩いて行ってみる。

さて、案内に従って行ってみると、地区の集会所(公民館のようなもの?)があって、その奥に己高閣と世代閣が建っていた。閣とはいうものの外観は倉庫のようなものだった。集会所では5,6人の男性が窓を開けて談笑していた。寄り合いのようなものだろうか。

己高閣

とりあえずレインコートを脱ぎながら己高閣の入り口に立つと、集会所から一人の男性が傘をさしてこちらにやってきた。台風襲来直前の大雨の中、怪しげな格好をした人を見て、人は何と思うだろうか。多少は警戒しているのではないかと緊張したが、変な言い訳など余計な説明をするほど変になるかと思ったので、何か聞いてくるまで黙っていることにした。彼は己高閣のカギを開け、中に入れてくれた。

ここで貰ったパンフレットには、己高閣と世代閣のサブタイトルとして「湖北仏教文化のメッカ」と書いてあった。「仏教」の「メッカ」ね。矛盾を抱えたサブタイで面白かった。

ただ、己高山には、法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺、そして観音寺の別院としての飯福寺、鶏足寺、円満寺、石道寺、法華寺、安楽寺など天台・真言密教寺院が建ち並び、隆盛を誇っていたことを鑑みるなら、「湖北仏教文化のメッカ」もあながち言いすぎではない。しかし、それらは明治以降は衰退し、飯福寺と安楽寺が残るのみで後はすべて廃寺、しかも残った二寺ともに無住となっている。

このように全く衰退してしまった己高山の諸寺だが、今では己高閣がそれぞれの本尊や寺宝を納めている。

己高閣は入るとすぐに全ての収蔵品が見えるという、とても単純な構造をしていた。それぞれの仏像をみてゆこう。

七仏薬師如来像。己高閣に入って右手側に安置されている七体の薬師如来である。中央の一体のみ少し大きく作ってあり、その左右に三体が配置されている。それら全ての造形がほとんど同じならば対称性がとれているのだが、実際は一体のみ顔付きが極端に異なっている。横長の平たい目、大きい鼻を持ち、まるでおやじ顔だ。複数の仏像を造る際は、それぞれ違う人が作ることが多いので、必然的によく見ると違いがわかるのだが、ここまであからさまに違って作っているものは見たことがない。意図的なものなのだろうか。

不動明王。髷が肩に垂れて、再びつながっているのが面白かった。くり貫いているのである。

十一面観音。中央に配置されている。左手が極端に長く、肌が白いのもあり、奈良の不退寺の観音菩薩像に似ている。右足の親指だけが妙に持ち上がっている。動作を含んだ表現となっている。

毘沙門天。こいつには獅噛が付いていた。

普賢菩薩。鼻が大きくて田舎っぽい顔付きをしている。あまり洗練されていない造形だ。

兜跋毘沙門天。典型的な兜跋毘沙門天ではあるが、目が彫られておらず、墨も塗られていない。意図しているわけだ。不思議な像である。

己高閣に入って左手のほうに、もう一体不動明王像がある。マンガみたいな顔付きをしていて、やや前のめりになっている。足元にはミニミニ童子が一体だけあり、もう一体は付けてあった跡のみが残り、いまでは紛失してしまっているようだ。

一通り見終わった後、係の男性が世代閣へと案内してくれた。その際、そなえつけの傘を貸してくれた。折りたたみの傘は自転車の籠の中だ。

世代閣

世代閣は平成になってから造られた収蔵庫で、世代山戸岩寺の寺宝を納めている。ちなみに己高閣と世代閣は、與志漏(よしろ)神社の境内に立っており、與志漏神社と世代山戸岩寺とはいわゆる神仏習合の形態で一体となっていた可能性が高い。「湖北仏教文化のメッカ」と嘯くほど隆盛を誇っていた己高山の諸寺が、尽く明治以降に荒廃したのは、すべて神仏分離令によるものであったことは容易に推測できる。

世代閣は、己高閣のように入ってすぐ全てが見えてしまうような単純な構造はしていなかった。靴入れやスリッパも備え付けられており、部屋も割られている。新しい木材のにおいがした。それでは、それぞれの収蔵品を見ていこう。

大日如来から空海を経る血脈図が掛け軸として展示されていた。真言宗の正統性を主張するためのものらしい。その隣には、地元の豪族だろうか、伊香氏という氏族の系図もあり、天児屋根尊から始まっている。五代目から伊香津臣命と、具体的な伊香氏の人名が見えるようになる。伊香具神社の氏子一族のようだ。天児屋根尊は天御中主尊の曾孫であり、正統性を持たせるための系図だろう。

蔵王権現像。蔵王権現が蔵王権現であるための、あの大きく足を上げるポーズをしていない。だいぶデフォルメしてしまっているようだ。

降三世明王像。フック船長よろしく足に接ぎ木をしている。破損仏なのだ。

愛染明王像。頭上の獅子が笑っていた。都にはない洗練されてなさが、いい味を生み出している。

十二神将像。二体が失われている。

亥のビガラ。きょとんとしており、虚を衝かれたような表情をしている。獅噛有り。剣を持つ。

戌のチャツラ。右上をじっとみつめている。何かを思い出そうとしているような感じ。斧を持つ。

申のマクラ。下を睨み、腰に手を当てている。表情が悪魔っぽい。何故か体が細く、これも悪魔的な感じがする。槍を持つ。

未のパジラ。むっとした表情をしている。獅噛有り。弓を持つ。

巳のサンティラ。穏やかな表情をしている。右手に槍、左手に巻き貝を持つ欲張りな奴。くびれが非常に細いナイススタイルを持つ。なぜか茶色の顔をしている。獅噛有り。

辰のアニラ。けばけばしい彩色。桃山式っぽいバロックさを感じる。なぜか緑色の顔をしている。口を開けて何かを叫んでいる。槍を持つ。

卯のアンティラ。一番派手。虎の皮を首に巻いていた。籠手にも虎の皮を使っている。また、でかい。十二神将のそれぞれの大きさが統一されていないのは、それぞれ違った経緯で作られたからなのか? 下半身が妙に大きく造られている。なぜか緑色の顔をしている。全くの黒眼となっていてちょっと怖い。しかも顔のそれぞれのパーツが全て顔の真ん中に集まっていて、異様な感じを受けた。

寅のメキラ。手をかざして遠くを望む、典型的なポーズ。獅噛有り。矢と金剛杵を持つ。

丑のヴァジラ。サンダル履き。牛の角がはっきりしていた。白色の肌で強くにらむ。前掛けに獣の皮を巻き、獣の顔が表現されている。兜をかぶり、鐘と金剛杵を持つ。

子のクンビーラ。開いた口を見ると舌が彫られている。衣の裾の表現が波打っている。剣を持つ。

十二神将の真ん中には、下半身が異常に大きい薬師と妙に不細工な日光・月光両菩薩が控えている。ただ、両菩薩は彩色が残っており奇麗だ。

魚籃観音。籠にはちゃんと魚が入っていて、しっぽが出ていた。

地蔵菩薩。破損仏。顔が摩耗しており、ちょうど顔を割っている宝誌菩薩像のようだった。

ちなみに鎮守社である與志漏神社の「與志漏(よしろ)」はどう見ても当て字であり、己高山が「ここう」と音読みなのに対して、世代山は「よしろ」と訓読みである。元々は與志漏神社が先にあり、その神宮寺的な位置づけとして世代山という寺が建ったのかもしれない。今では己高閣と世代閣とが対となっているかのように建っているが、その創建時の事情は全く異なるものだったのだろう。


己高閣と世代閣の間にはアジサイが。もう七月の中旬だというのに、このあたりではまだまだ咲いている。

帰りしな、案内の男性は記帳を求めてきたので快諾した。「次は石道寺にでも行くんですか?」と聞いてきたので、そうすることにした。再び男性は集会所へと戻っていった。

支度を済ませて集会所の脇を通ると、集まっていた人たちが「ありがとうございました」と言ったので、お辞儀をした。湖北では、このように地区民が地区の寺を守っている。彼らはただただ守っている。仕方のないことだが、後はこのような状態がずっと続くだけだ。いずれ元々はどうだったのか忘れ去られる。「何故守っているのですか?」と聞いても、ただ「守るべきだから」としか答えようがなくなる。理由も知らず無謬のこととして処理されるようになる。廃寺・無住化することより、そのような状態になるほうがずっと空しいではないか。

さて、自転車のサドルに付いた水滴を払って石道寺へと向かう。石道寺への道は、延々微妙な登り坂になっていて辛かった…。もう登り切るときになって、ようやくこの自転車にギアが付いているのに気づいた。しかもずっと一番重いギアで漕いでいたのだった。軽いギアにチェンジして、こぎ続けた。

自転車で行けるのは途中まで。ここで自転車を置き、あとは散策コースを歩いていくしかない。もうざあざあ降りになってきてしまった。


徒歩の散策コースはしっかり整備されており、歩きやすくなっている。民家の間を縫うようにして進む。

石道寺

 
ようやく石道寺。もう土砂降りになっている。

ここも無住であり、地区民が守っている。二人のおばあさんが案内所にいた。そのうち一人のおばあさんが本堂に案内してくれた。説明用テープを流し始めた。それではチェックを始めよう。

中央には十一面観音。右足の親指のみ少し上げている。やはり手が長い。地方仏としてはかなり品のある顔立ちだった。

多聞天と持国天が左右を護っていた。多門天はマンガっぽい顔になっており、少々田舎っぽい。口を横に開けている。

持国天は、口を閉じていた。もしかすると、多聞天と阿吽の対応をしているのか!? なお、獅噛有り。

不動明王は、腰をくゆらせており、セクシー。パンチパーマの頭の上に、平たい台が乗っているのが不思議だった。持っている剣がなぜか頭に食い込んでいた。ちょっと雑な造形は地方仏の特徴だ。

 
本堂の彫り物が凄い。建築もなかなか良い。

おばあさんたちが居る詰所(?)にはテレビがあり、実はなかなか快適そうだ。拝観料を納めたとき、ちょっと覗いてみたが、台風の影響で各航空会社の遅れが出ているというニュースが流れていた。台風はこれから暴れだす。明日以降不安だ。

石道寺を後にする。現在12:10。木ノ本を離れるのは12:18のつもりだったが、もう遅い。今後の予定を一時間遅れにしてしまおう。この計画変更のために、大津周辺の寺が見られなくなるが、明日以降に回そう。台風が来ることだし、明日以降の計画だってうまくいくかよくわからないのだから。

今のところ、台風の速度が上がることを願っている。何度も携帯で調べているが、依然30km/hのままで遅い。何とか速度が上がれば、明日の午前のみ犠牲になるだけで済むのだが…。

計画変更によって少し余裕が出たので、行きに見過ごした木之本地蔵尊に立ち寄ってみよう。


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