雍州春景 2007年3月30日〜4月1日

出発までの顛末

2006年11月に「秋ならきょうと」と銘打って奈良・京都と巡り、寺院を様々な視点からみつめることの面白さを発見した。その興奮はなかなか冷めず、また前回は体調が悪かったせいで幾分消化不良に終わったので、ただちに再度の京都訪問を思い立った。

前回紅葉を楽しんだのなら、次回はやはり桜であろう、ということで訪問時期を4月初旬頃に考えていた。

しかし、1月からは会社の新しいプロジェクトに関わってしまい、忙しさにかまけて何も調査せずに3月を迎えてしまった。

今年は暖冬なので、例年より桜の開花が早まるであろうと予測し、3月の最後の金曜に有給を取り、三日間の京都滞在を決めた。

よりたくさんの寺院を観るために、時間も交通費も節約しておきたい(拝観料がバカにならない)、のぞみ往復(30K円は覚悟しなくてはならない)は断念し、往路を夜行バス、復路を昼行バスとした。

往路の夜行バスはJRの東京駅八重洲口〜京都駅烏丸口の便。一番安いので5000円クラスがあるが、一睡もできないようでは初日の行動が制限されてしまい意味がない。そこで、一つグレードの高い「ドリーム京都号」を利用することとした。片道8000円のこの便は三列シートであり、他人の存在が気にならない。シートのリクライニングなど設備も良さそう。仕事が終わった後に乗車するわけだから、疲れで案外眠れてしまうのではないかとの期待がある。加えて寝酒でも持ち込んでしまえば京都まで一瞬かもしれない。しかも京都駅には7:00着でのぞみよりも早い。なお、夜行バスの利用は初めてである。

復路の昼行バスは、京都深草(伏見のあたり)〜東京駅の設定、一番遅く京都深草を出るのは15:01の便で、東京駅には22:40着。以前乗車した時は首都高で渋滞に巻き込まれてしまい、一般道に降りたのは既に日付が変わった後。霞ヶ関で途中下車することで、なんとか終電で帰宅することができたが、今回も幾分不安である。ただ、5600円の設定はかなり魅力的だし、何より夜行と違い「眠らなきゃ」という自己プレッシャーが無いだけ条件が良い。このバスも三列シートである。途中三回ほどSAで休憩があるが、これもひそかな楽しみだ。

どちらものぞみに比べれば諸々の面で難有りだが、往復でものぞみ片道分より安くあがるのはやはり魅力的である。のぞみ片道分をまるまる寺めぐりに使うと、ひと寺500円としても25ヶ寺の拝観料をまかなえるのだから。

夜行バス乗車

夜行バス乗車日は木曜で、普通に残業。明日の仕事の引き継ぎを済ませて帰宅。御飯と風呂を終えると程なくして出発の時間。今回はいつも仕事に行くときに持つトートバッグだけ、という軽装で行くことにした。

この辺のあっさり感は、学生の時とは大違いだなぁ。旅先で何かあったとしても、ある程度何とかなるだろうとの余裕があるからなんだろうけど、だんだん旅行に出るときのドキドキ感が薄れていくような気がして、なんだか寂しい。

東京駅に到着し、寝酒が欲しかったが、既にどのキオスクも閉まっていた。東京駅周辺でコンビニを探すが、予想通り皆無。もう乗車時間になってしまったので、急いで乗り場へ。ムダに動いたので疲れちゃったよ。

出発時から窓がカーテンで閉じられ、バスがどこを走っているのかが不明。寝酒はなかったが、仕事の疲れと乗車前に図らずもランニングした疲れからか、足柄SAでの休憩時間まで少し眠れた。

足柄SAでは、休憩時間いっぱいビールを求めてさまよったのだが、見かけるのは空き缶ばかり。売店のおじさんに「SAってビール置いてないんですか?」と聞くと「飲みたきゃ下の道に下りるしかないよ」と冷たく言われてしまった…。やっぱりSAにはアルコールないのね…。ワタシ運転しないんですけど…。

足柄を出るとほどなくして突然大雨が降り出した。実はこの三日間、京都でも雨がちという予報が出ている。不安だ。晴れ男パワーを発揮しなくては…。

寝酒は確保できなかったが、京都までの時間、断続的にではあるが眠れた。トータルで4時間ほどは眠れたかもしれないが、この季節でも夜間は相当冷えるようで、窓側の席だったこともあり、寒くて眠りは長くは続かなかった。

京都着

定時7:00に京都到着。雨はすっかり上がっていて、青空も雲の切れ目から見えていた。気温もこの時間としては暖かい。なかなか良いスタートだ。京都駅近くの郵便局で金をおろし(既に開いていた)、出発。

今日は嵯峨野を中心に金閣、相国寺、銀閣まで巡ろうと思う。相国寺は現在法堂や浴室などを特別公開中。金閣と銀閣は既に中学の修学旅行で訪問しているが、相国寺の境外塔頭ということで、この三ヶ寺を一度に巡ることで何か見えてくることがあるかもしれないとの魂胆がある。ただ、スケジュール的にはなかなかキビしいかな?

等持院

最初に訪問するのは等持院。ここは8時に拝観が始まるので、ここを出発点とすれば効率よく巡れる。まずは円町までJRで。今日は平日、この時間にバス移動はダメだろう。ただ、JRも通勤時間は混み合っていた。

円町からはバスで衣笠校まで移動。等持院は住宅地のど真ん中にあり、どの公共交通でも近くまではいけない。うろついていると、立命館大にぶつかった。この先に等持院があるようだが、大学構内をショートカットさせてもらえば割と近いようだ。


立命館でも、この時期は新入生獲得のためのサークル勧誘立て看板が立っていた。目にはとまるけど、それほどセンスがあるわけじゃないなぁ。

勝手口のようなところから等持院に侵入。後で地図で確認したところ、嵐電の等持院駅からアクセスするのが近いみたいだ。

 
等持院の方丈入り口。典型的な臨済宗の様式だ。禅宗では基本的に法堂(仏堂)が本堂であり、方丈は住職の住居(つまり寺務所)であるが、等持院では方丈が本堂となっている。

「等持院」とは足利尊氏の戒名で、本寺には彼の墓がある。尊氏の戒名を寺名としている。そのため入り口には「丸に二引両」、つまり足利氏の家紋がある。臨済宗の支持層は武士だったこともあり、京都に幕府を開いた足利氏との関係が深い。


方丈入り口の内部はこのようになっていた。


禅宗の方丈には欠かせないスカンダ像。やはり剣を横にして頂きますのポーズ。ただ、兜には「くわがた」があり、支持層の武士を意識しているのだろうか?


天龍寺と同じように、入り口には達磨の衝立があった。天龍寺派だからだろうか。


方丈の庭園。南庭。派手さはないが、なかなか趣深い。

 
こちらは霊光殿。足利氏将軍の廟所(位牌のある堂宇・みたまや)で、13体の各将軍像が安置されている。

 
各将軍像が左右に、奥には霊光殿の本尊地蔵菩薩が中央に安置されている(右画像)。地蔵菩薩像はかなり小さく、頭身が小さいのでまるで子どもの像のようだ。地蔵菩薩の左手には等持院の開山夢窓疎石、右手には達磨像。地蔵菩薩像の上部には、二匹の鶴が。よく出来てます。

 
左画像は達磨の左手にあった羅漢像。禅宗だしこのポージングから、おそらくマハーカーシャパだろう。右画像は達磨像。手前の頂相は…誰だ?

 
左画像は尊氏。戒名はもちろん等持院だ。なかなかオトコマエじゃないか。ただ、初代といえども特別扱いされていない。

右画像は二代の義詮。戒名は宝篋院。嵯峨野の宝篋院に墓所がある。これらの像が彼らの風貌を正しく伝えるものなのかどうかは、よく分からず。よってこれらの像の造像時期が気になるところだが、これもよく分からず…。

 
左画像は七代の義勝。在位8ヶ月、10歳で死んだため子どもとしての像しかない。戒名は慶雲院だが、墓所の慶雲院は現存しない。

右画像は八代の義政。10歳で死んだ義勝の弟だから、彼も幼くして即位した。ただし、夭折することはなかったから、彼の風貌はおっさん。芸術家肌の将軍はこんな風貌だったのか。戒名は慈照院。すなわち慈照寺(銀閣)の寺名である。

一般的に故人の像を造るとき、どの年齢の風貌を表現するのだろう? ここに置かれている将軍像はどうなんだろう。義勝のように10歳で死んだ場合は、自ずと10歳の風貌を表現するしかないけど。

 
左画像は三代の義満。よく見る義満の画像とよく似ている。この木像と画像がそれぞれ独立に(影響されずに)造られたものならば、義満は本当にこんな風貌をしていたのだと思うが、影響関係はどうなっているのだろうか。さすがに貫禄のある風貌だね。戒名は鹿苑院。言わずと知れた鹿苑寺(金閣)の寺名となっている。

右画像は徳川家康42歳の時の木像。年齢が特定されているということは、この木像は同時代のものだろう。彼が足利将軍像の中に混じっているのは何故だろう? 先輩将軍たちと肩を並べたいということだろうか。であれば、これらの木像は家康が生前に自らの権威を正当化するためにまとめて造らせたものなのかもしれない。「尊氏兄やんと一緒にしてくれや」

なお、足利将軍は15人いるが、ここには13体の木像しかない。無いのは五代の義量と十四代の義栄。等持院のパンフレットの書き方からすると、消失したのではなく、初めから造像されていないようだ。この二人を欠く理由とは? 義量は実権を握ることなく夭折したし、義栄は一度も京都に入ったことがない傀儡将軍だったそうだし、どちらも評価し難いからだろうか。であれば何故10歳で死んだ義勝は造像されたのだろう? ただ、義量の像は以前訪問したことがある栃木県足利市の鑁阿寺にあるらしい。

図らずも足利政権の勉強をしてしまった。断片的な情報しか目にしていないが、将軍家と日野氏とは複雑な婚姻関係を結んでいるようで、なかなか興味深い。一夫多妻制の父系社会においては、自分の父親よりも生母の家系の男性、つまりオジのほうが頼りになる。母系の分析でなかなか面白いことが分かりそうだが、既にこういう研究はしつくされているのかな?

それと、義満は晩年に出家、義教は還俗して将軍に就いているが、彼等の政治思想が気になる。


さて、これは北庭。さきほどの南庭とは対照的に「はんなり」している。手前には心字池、中央の島にはかつて観音閣が建っていたらしい。一体どんな堂宇だったのだろう。観音菩薩はポタラという南海に浮かぶ島に住むと言われている。そのイメージだろうか。

北庭は衣笠山を借景としているのだが、等持院と衣笠山の間には立命館大の建物ができてしまい、かつての風景とは違ってしまっている。

先に見えるのは茶室青漣亭。内部は非公開。どこの茶室も面白いつくりをしているが、ここのそれも例外ではない。

…? 今何か居なかった?


なんとノラネコが茶室に侵入!

 
ネコはそのまま茶室をスルーし、再び外に出て、これまた立ち入り禁止の庭園へと繰り出していった。ちゃんと設定されている通路を通っているのが面白い。通いなれた道なのだろうか。

 
島から石橋を通って手前まで到着。立ち入り禁止の柵のところで自分と目があってしまった。警戒を強めたネコは脱兎(脱猫?)の如く足早に境内をかけ抜けていった。

いいもの見ちゃったよ。等持院北庭の散歩は朝の日課になっているのかな?

現在8:30。自分以外の拝観客はまだ来ていません。


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