高雄バス停で下車。ここにも食欲をそそるような食事処が数件あった。もうそろそろ昼食の時間なのだがホテルバイキングでしっかり食べてしまったようで、なかなか腹が空かない。


神護寺へ向かう道の入り口。やっぱり紅葉のピークはまだ後なんだね。

下り道。帰りが大変そう。

 
清滝川。だいたいここが神護寺の参道の真ん中。そして一番低いところ。ということは、この先は登りということになる…。


かなり急な勾配の石段を登る。もう11月だが、かなり汗をかいた。画像は振り返ったところ。


やっと山門が見えた。

 
左は山門前の紅葉。陽があたる側はかなり赤くなっていた。右は寺務所。画になるなぁ。

三尾地域の高山寺、西明寺はもとはここ神護寺の別院だった。ちなみに三寺とも真言宗だが、それぞれセクトが違う(高山寺は御室派、西明寺は大覚寺派)。

 
紅葉に囲まれた神道式の社は和気公霊廟。ここ神護寺は和気氏の私寺として創建された。この先の山の奥には、平安京造営に関わった和気清麿の墓がある。霊廟の奥に見えるのは鐘楼(右)。なんだか神社の楼門のようだ。茅葺きの屋根が紅葉とマッチ。


毘沙門堂。元はここが本堂だった。内部拝観は出来ず。


本堂への石段を登りきったところから。よく使われるショット。現にどこかの撮影隊がカメラを回していた。奥が毘沙門堂、手前が五大堂。五大明王像が安置されていると思われるが、ここも内部拝観出来ず。うーん、密教の醍醐味が拝観できないのは残念。


境内の一段高い場所に建つ金堂。割と新しく、昭和10年に大阪の商人の寄進によって建った。この割と広い場所には元々何の堂宇があったのだろう。一切情報がないが、ひょっとすると山肌を削って新たに造成したのかもしれない。

金堂内部中央には薬師如来、日光月光の眷属、そしてお決まりの十二神将たちが安置されている。造像もこの順で行われている。そういやこのメンバーは東寺の金堂に安置されるメンバーと同一だ。唐から帰った空海はここに入山し、真言宗の基礎を築いた。神護寺のフルネームである「神護国祚真言寺」は空海入山時に定められた(ちなみにこの「神」とは八幡神のこと)。その名には国家鎮護の祈願が込められている。新たに宗派を確立するにあたって、寺の名をそのように定めたということは、空海が天皇をパトロンとし、強力な政治的権力を後ろ盾とする戦略を明確に打ち出していたことを意味するだろう。その後入った東寺の別名「教王護国寺」も、天皇との結びつきを分かりやすく示している。


本尊左手に安置されている十二神将の半分。彼らの外側には四天王のうち二体が居る。一番下の段左は、どこの十二神将にも必ず居るようなおとぼけ大将。左手をかざして遠くを見ている。剣を光背の後まで振りかざしている超ストレッチ大将や、虎の毛皮を使った籠手などを装備しているのもあり、対応する十二支が気になるのだが、残念ながら説明が無く不明。なかなかよく出来ている十二神将たちなのだが、一切彼らに関するグッズがないのも残念だ。

四天王は、十二神将の外側に配置されているが、向かって左前の四天王のみ獅噛が確認できる。

そしてそのさらに外側には、昭和10年、新金堂が建てられたのと同時に造像された四体の仏像があるが(向かって左から弁財天、地蔵菩薩、如意輪観音菩薩、大黒天)、どれも壮年男性のような顔をしている。古い日本人のような顔立ちで、女性神であるはずの弁財天もそのような同じ顔をしているので、おそらくは寄進した大阪の商人が、自分に似せて造らせたのかもしれない。そうだとしたらなかなか悪趣味だ。パンフレットには一切これらの説明がなく、神護寺としてもこの四体の仏像の扱いに苦慮している雰囲気がどことなく感じられる。

本堂入り口には二人の僧侶がいたが、たまに来る買い物客の相手以外は、ひたすら外に向かってぼーっと立ちつくしていた。これも修行なのだろうか…。


宝蔵前の紅葉。一番奇麗に観られた紅葉かもしれない。良い色だね。

かわらけ投げはパス。たくさんの寺宝がありながら非公開が多いので残念だが、「宝物虫払い」として公開されることがあるようなので、時期を逃すことのないようにしたい。

再び石段を下ったり上ったり。汗びっしょりでバスに乗り込んだ。次は特別公開中の仁和寺。しばらく腰を落ちつかせよう。もう14:00になってしまった。仁和寺で14:30頃か。これから清涼寺や日没後からライトアップ拝観を実施する天竜寺まで予定に入れているので、時間が気になる。


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