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京都'08秋の特別公開その1 2008年11月2日

大徳寺塔頭真珠庵

だいとくじたっちゅう しんじゅあん

京都府京都市北区紫野大徳寺町53

京都市営バス大徳寺前バス停下車

マピオン

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大徳寺塔頭真珠庵

今度は真珠庵。かなり前から望んでいたが、ようやく内部を拝観することができる。

左画像の先の山門から先が真珠庵。左へのびる石畳を進むと大仙院。塀にはセンリョウ(?)が植えられていた。この塀の先は先ほど見た本坊だ。

また例により撮影禁止ということもあって、図面を起こした。図面下部には、塀を共有している本坊の一部を残しておいた。こうすることにより、他の塔頭とどのように接続しているのか分かりやすいと思う。

真珠庵は、大徳寺を復興させた一休宗純ゆかりの塔頭として名が知られている。図面を見ればわかるように、方丈の後ろに書院が付属している。

庫裡に入ると、ここにも煮炊き用の竈があった。庫裡と方丈を結ぶ部分の左手には、井戸のある箱庭がある。

方丈は八室に分かれていて、南西の一室は客間(礼の間)で、達磨の掛け軸が据えられていた。曾我蛇足による襖絵「山水図」。蛇足は「じゃそく」と読むそうだが、「だそく」とかけているのではないだろうか。

その隣りの縦二室は、板敷きの室中の間で、方丈の中心となっている。奥には一休の頂相がある。頂相とは、師匠の肖像画であったり、木像であったりするもので、禅宗で特によく作成される。室中の間の奥の頂相は、一休の木像であり、あごひげに一休の髪を植え付けているとか。ということは、一休は剃髪していなかったということになる。一休の顔は白かった。

その手前には、掛け軸が三つかかっており、中央に一休の遺偈、その左右に「諸悪莫作」「衆善奉行」の偈。遺偈は僧侶が死に際して読む詩で、どれも一休の直筆。一休の遺偈にはいくつかあるが、ここの遺偈はあの有名な「須弥南畔 誰会我禅 虚堂来也 不値半銭」であった。「須弥山の南のほとりまでやってきたが、誰も私の禅風を理解できなかった。虚堂がやってきたとしても、その価値は半銭にも及ばない」。虚堂とは、南宋の虚堂智愚という僧侶のことで、一休が尊敬、理想とする人物だったようだが「彼でさえ私の禅を理解できないだろう」という、なかなか挑戦的な内容になっている。

「諸悪莫作 衆善奉行」は、白楽天が道林禅師に仏教の奥義を問いたずねたときの答え。その意味は「悪いことをするな、善いことをせよ」。非常にシンプルな答えだが、単純であるからといって誰でもできるとはかぎらない、ということを示している。

一休は破戒僧として知られるが、その彼が「諸悪莫作 衆善奉行」と書くことに彼独特のアイロニーを感じ取らなければならないだろう。そのまま受け止めるなよ、という一休の挑戦なのだ。すなわち聖俗一如を示しているのはないだろうか。

一休の他の書で、「衆善奉行」と書くべきところを「衆奉行」と書いてしまい、「衆」と「奉」の間に小さく「善」と付け足してあるのを見たことがある。本当に間違えてしまったのか、間違えたふりをして「善」を小さく書くことで皮肉な態度を表明しているのかは分からないが、どちらが一休らしいかといえば後者だ。ただ、この読みさえも一休が見越していたとするならば…? このような、捉えようとした瞬間するりと抜けてしまう、そんなナマズのような感触が禅の真骨頂だと思う。そういえば、妙心寺の塔頭退蔵院にはナマズをひょうたんで捉えようとする瓢鯰図がある。漁夫が捉えようとしているあのナマズは、ひょっとすると悟りのことなのかもしれない。

東の間は衣鉢の間。等白の襖絵「蜆子猪頭図」がある。蜆子は中国の隠者で、その在り方は、しばしば禅宗における理想として描かれるが、シジミ(シジミは蜆と書く)とザリガニやエビを好んで食べていたようだ。属性が名前を決定している。子は尊崇を受ける人に付ける語であるから、蜆子は「シジミ先生」といったところか。何でも、エビを食べていた時に悟ったのだとか。蜆子は長い髪をはやしている。

猪頭も猪の頭を好んで食べた中国の隠者で、名前の通り、これも同じだ。ぼろぼろの服を着て猪の頭を担いでいる姿で描かれる。彼は空を飛ぶことが出来たという。また、干ばつや洪水除けの信仰があるという。

さて、破戒僧であった一休ゆかりの塔頭に、「蜆子猪頭図」が描かれているのは興味深い。どちらも肉食し、仏教の戒律に背く人物だが、それでも人の尊崇を集めている人物を主題とした画だ。つまり、蜆子と猪頭が一休と重ねられていると考えられる。「破戒僧」というレッテルを貼ることはたやすいし、ただそのことだけを以て稀有な存在と言うことも簡単すぎる。そこから「戒律よりも優先すべきことがある」という意思をくみ取ることが重要であろう。髑髏を杖の上に掲げて「用心、用心」と街を練り歩いたのも、単純に奇行と捉えてしまってはいけない。「我々は死を忘れて生きている」という誰も特段意識しないが大切なことを直視させようとしていた、と考えなければならない。

北東の間には、一休の頂相。ただしこちらは画であり、輿に乗って担がれている様子が描かれている。ここでも髪を生やしているのが分かる。

方丈前庭は、一面苔になっているが、中央奥に、何本かの木が生えている。

方丈東庭は七五三の庭。本坊はでたらめなのに対し、こちらはちゃんと7,5,3の数で揃っている。村田珠光という人の作。

さて、方丈奥の書院へと行こう。「通僊院」という名が付いている。「僊」とは「仙」と同じ意味を持つ。「僊」の旁の部分は「遷」という字でも使われるように「うつる」という意味を持つ。それに人偏を付けることにより、「僊」は「人の霊魂が他者へとうつる」という意味を持つ。「仙」は仙人という意味だが、仙人は霞を食べて生きるといわれ、不老不死の存在とされる。しかし、正確には老化もするし死亡もする。仙人は、魂を古い肉体から新しい肉体へとうつることによって不死を実現している。それを神仙思想における最大の奥義、尸解というが、なぜ「仙」が「僊」と同じ意味なのかが分かったと思う。つまり、通僊院とは、「仙人へ至る」という意味を持つ名前なのだ。

通僊院は正親町天皇の女御の化粧殿を移築したものらしい。門をくぐって書院へ。手水鉢や蹲などが左右が置かれている。書院の周囲は苔で覆われている。

書院の北東には「庭玉軒」という名の茶室があり、書院の東と北は露地になっていた。

納戸の間の土佐光起による「花鳥図」には、花に貝を砕いたものを使用していて綺麗だった。

方丈の北側を回って戻る。方丈の北西にも無縫塔のようなものがあった。

これで大徳寺はおしまい。ノドが荒れてきて苦しくなった。水や飴をなめても効果がみられない。ノドスプレーでなんとか対処。

大徳寺付近でみた松屋藤兵衛という名の和菓子屋。

たたずまいが老舗といった感があるが、火頭窓の下の土壁が良い。

前回も見た「汚点紫(しみむらさき)」。

今回は開店していたが、商売をしているのかどうか判然としない。この店で飼われているのか、勝手に居着いているのか分からないが、入り口にはネコが入店を拒むかのように鎮座していた。

堀川北大路交差点で見かけた教会。日本聖公会京都復活教会というらしい。いわゆるイギリス国教会の系列。

バスの乗り換えで急いでいたため、中を見ることなく立ち去ったが、最近はこういった教会建築や、明治期以降の洋風建築などにも興味がある。

日本聖公会京都復活教会は、ヴォーリズによる建築だとか。ヴォーリズ建築は、2007年の夏に行った滋賀(「江州巡覧」)にてはじめて知った。京都にもいくつかあるらしい。次は洋風建築めぐりもいいかもしれない。

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