近江京師巡礼 2007年8月11〜14日

大原から一乗寺へ戻る。やはり大原は遠い。曼殊院に到着したのは既に11時になろうかという時間だった。

曼殊院

 
ここも天台門跡ということで、石垣が積まれている。やはりかつては僧兵がいたのだろうか。


庫裏入り口。

 
庫裏内部は本当に庫裏(台所)になっていた。禅宗でもないのに珍しい。さすがにカルッティケーヤ(韋駄天)は祭られていなかったが。


坪庭。枯山水系。蹲があるのがみえる。

 
門跡寺院ということで、襖絵にも禅宗寺院にはない華やかさがある。孔雀のつがいだ。

蛇足だが、禅宗はどこか神仙思想に通じるものがあり、見ていて人をいらいらさせるようなモチーフを描くことが多い。寒山拾得図など、人の生理をかき乱すような。ただし、人が感じるそのような嫌悪感は、おそらく我々が普段当たり前と思って顧みないような価値観を根底が覆す恐ろしさを持っているからに他ならないだろう。

人は死を忘れて生きている。そうしないと立ち行かないからだ。毎日大変な思いをしながらあくせく仕事ができるのは、自分が死ぬわけない、明日は必ずやってくると信じているからに他ならない。しかし、一歩立ち止まってしまうと、その信念には何ら根拠などないことに気づいてしまう。だから人は立ち止まらず、故意に思考停止して毎日を過ごそうとするのだ。

そして、その生を「無根拠」と堂々と言い切ってしまうのが禅である。そのような事実を突きつけられた人はたじろぎ、忌避しようとする。それは、誰もそれが真実であることを、とっくの昔に理解してしまっているからなのだ。

誰もが疑いもしない土台を根の根元から覆してしまうのが禅であり、それこそが哲学なのだ。日本には優れた哲学が古くからある筈なのに、現代の哲学においてはほとんど顧みられることがない。西洋哲学と東洋哲学の区別なく、仏教哲学もちゃんと位置づける必要があると思う。分野によっては、西洋哲学よりもずっと優れた論考がある。自分はそれが道元の『正法眼蔵』だと思っている。時間論・空間論の哲学書である。


千円出せば、八窓軒という茶室を見られるらしい。奇抜すぎる。


杉戸の狐? かわいい。


幽霊の絵。「撮影した人にはよくないことが起こるから撮影は遠慮してください」などといった注意書きがあった。これはタダの絵画だ。別に自分には幽霊などとは一切関係がないので遠慮する必要はない。というわけで撮影した。

この手の事で始末が悪いのは、仮に私がこの撮影以後に善くないことが起こってしまうと、どうしてもこの幽霊の絵を撮ったこととの因果関係を主張されてしまうことだ。どうしても言い返しをさせないシステムなのである。自分には最初から勝ち目を与えられていない「ゲーム」なのだ。

寺院がこのような態度をとっていることに「バカじゃねーの?」と思わざるをえない。仏教は幽霊のような存在を否定しているはずだ。こういうのを見るたびにつくづく寺院というのはバカだと思う。それを否定すべきなのが仏教の本来の役割なのだが。これだから葬式仏教・生臭坊主とバカにされるのだ。

神の存在や、年寄りの若い頃の武勇伝などは聞き手に疑いを持たせることができない。自分はそういった議論には一切耳を貸さず、すべて否定することにしている。聞き手に対し、弁解の余地を担保しておくのが正当な議論だし、人としての最低限の良心というものだ。それが欠如したものは、100%真実性がない。一切相手にしてはいけない。心霊商法やオカルトなどと同類のものだ。ましてや僧侶が霊などといって脅すようじゃおしまいだ。唾棄すべき僧侶である。そういうお前こそもう輪廻する必要はない。六道のいずれにも化生することなく、文字通り外道となり、無間地獄に堕ちて永遠に苦しめ。

神霊の類を説かないのが仏教ではなかったか。神霊を信じる者たちを啓蒙していくのが仏教ではなかったか。仏や経典なども究極的には否定するのが仏教ではなかったか。それらは、少なくとも大乗仏教の使命ではなかったか。


壁の色がかわいい。

 
曼殊院の枯山水。白砂は水として捉えられるから、苔の部分はその真ん中に浮かぶ島ということになる。


欄間がおしゃれだ。門跡寺院ならではの装飾だ。


虎の絵。やっぱり大きな猫になっちゃった。門跡寺院らしく、親王の筆によるものだ。


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