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越南漫遊記 2010年5月24~30日

グエン朝王宮跡

6:30-17:30
55,000VND

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グエン朝王宮跡(午門、太和殿、紫禁城)

16:20、帝廟が点在するフエ郊外からフエ市街へと入る。ハノイほどではないが、人の往来も激しくなった。これぞベトナム。

フエにもプロパガンダな看板が立っている。

16:20。いよいよグエン朝の王宮跡の見学だ。グエン朝では、清朝の紫禁城に倣ってこの王宮を造営した。元紫禁城には現在故宮という呼称があるが、こちらには特に何の呼称もない。ちなみにベトナムではフエを「故都フエ」と呼ぶ。「古都」ではなく「故都」。確かに「故」にも「古い」という意味があるが、微妙にニュアンスが違う。「古都」は単に「古い都」だが、「故都」は「かつての都」という意味になる。

フエの王宮跡前には、通称「フラッグタワー」と呼ばれる台がある。漢語では「旗台」。現在では写真のように、ベトナム社会主義共和国の国旗が掲げられているが、かつてはグエン朝の国旗が掲げられていた。グエン朝の国旗は、日本の「日の丸」の白地が黄色地になっていて、縁に青の「ひらひら」が付いたもの。

台は三段になっていて、それぞれ天、人、地を意味するという。クィンさんは「日本語では天地人ですよね」と得意げに言っていた。なお、このフラッグタワーは有料ゾーンの外にあり、いつでも観られるが、これに登れるかどうかは不明。国旗が掲げられているため、おそらく進入不可かとは思う。

なお、台にはベトナム戦争による弾痕が生々しく残っているという。

ちなみに、フラッグタワーの周りに鉄骨が組まれているのは「フエ祭り2010」の準備のため。フエ祭りは王宮内で開催され、会期は6月の上旬。まさに準備作業のピークといったところ。

フラッグタワーと王宮の間には広場があり、子供たちが凧揚げをして遊んでいた。これまで遊んでいる子供たちをあまり見かけなかったので微笑ましく思った。王宮の前には小さな売店があり、凧を売っていた。凧といっても和凧のように四角形や八角形などではなく、どちらかといえばカイトのような形をしている。

 

今回もグエン朝王宮跡の図面を作成してみた。茶色の建物は現存するもの、灰色の建物は現存しないもの。ほとんど残っていないことが分かると思う。実のところ、フエもベトナム戦争では激しい戦場と化した。この王宮も例外なくだいぶ荒れたらしく、その際に多くの建物が失われたという。かつてフエは南ベトナムの北端のあたりに位置していた。

なお、上の画像をクリックするとポップアップウィンドウが出るようにしている。

これから紹介していくにあたり、分かりやすいように左のようにエリア分けをする。

なお、左の画像もクリックするとポップアップウィンドウが出るようにしている。

入場する際、パンフレット的なものは特に渡されなかった。ベトナムではチケット的な証明はもらえたとしても、日本の観光地で貰えるような解説書のような類のものはほとんど無い。

まずはAからBのエリアを。

焦らしたが、これがグエン朝の王宮の入り口で正門である「午門」。コの字形になっているのが特徴。真ん中の部分の屋根だけが黄色となっているが、真ん中は皇帝が御する場だからだ。黄色とは皇帝の色と決まっている。その両側の緑の屋根の部分にそれぞれ文官と武官が控えるという仕組みになっている。

なお、なぜ「午」なのかというと、「馬」じゃなくて方角のこと。つまり「南」。お昼のことを「正午」というのは、12時に太陽が真南に来るから。「午門」も「南の門」という意味だ。

午門は2代目のミンマン帝が創建し、12代目のカイディン帝が再建している。

まずは午門をくぐる。三つの入り口があるが、真ん中は皇帝だけがくぐれるところ。現在でも真ん中からは入れないようになっている。左右の入り口はそれぞれ文官と武官のもので、小間使いなどの出入りはそのさらに外側の入り口を利用したという。もちろん中に入ってしまえば同じなのだが、入り口が違うということは、それぞれ別の意味空間で暮らしていた、ということを示しているように思われる。

門をくぐるとすぐにスペクタクル満点な光景が広がる。入ってすぐの池は「謙湖」、島(右写真)は「謙島」。

午門は上に登れるようになっている。

午門の手すりには、トゥドゥック帝廟でも観たようなデザインの装飾が。

カイディン帝廟でも観たように、陶器のかけらをモザイク画のように敷き詰めている。こういうのがベトナム独自の美術なのだろうか。なかなか面白い。

楼は二層になっている

龍などの装飾が施されているが、やはり木造ではない。細かい部分にも陶器のかけらをモザイクのように敷き詰めている。切妻部分に龍そのものが付けられていたりもする。

午門の楼上から凧が揚がっているのがよく見える。

堀。この宮殿も堀で囲まれている。

楼内に入る階段にも龍があしらわれている。登ってすぐのところには太鼓。鼓部分に陰陽マークをデザインした太鼓がある。そういえば今朝ハノイの鎮国寺で見た太鼓にも陰陽マークがあった。

楼内の床部分には細かいタイルが。

楼の二層目のど真ん中には、まるで中国の天安門の毛沢東のようにホーチミンの肖像画が掲げられている。これがフエ祭りのためなのか、恒常的にこうなっているかは不明。グエン朝の王宮は清朝の紫禁城を真似て造ったもの。また、天安門もこの午門も正門なので、まさに相似形になっている。

楼内はこんな感じ。

二層目への階段があるが、今は見ることができないらしい。特別何があるというわけでもなく、おそらくメンテナンス用だとか。

柱には竜が描かれ、ここが皇帝の場所であることを示している。

正面。フラッグタワーが見える。科挙の合格者発表に臨んだ皇帝が見たのと同じ風景だと思う。

写真に写っている絵のように、科挙の合格者の発表の際には皇帝は楼上に御した。

楼上につり下がっていた鐘にはなぜか星座が。

門から降りて、太和殿へ。太掖池という池があり、それにかかるこの橋を中道橋と言う。フエ祭りのためなのか、蓮の花を模した飾りが欄干に据え付けられていた。カイディン帝廟でも観たような、鳥居のような門がある。これもベトナム独自の美意識だと思う。

太和殿の中は撮影禁止。玉座などがあり、ここで儀礼を行ったという。儀礼を行った空間とは言うものの、内部は意外とあっさりしていた。ベトナム戦争中に完全に破壊され、現在のものは1970年の再建。

さて、太和殿の前は拜庭となっている(写真は午門に向かって振り返ったところ)。朝の儀礼が行われる場所なので、帝王の政体のことを朝廷という。廷は庭と同じ意味、発音だ。臣下のランクによって立つ位置が決まっている。上のランクほど、皇帝に近い場所になる。写真には写っていないが、各ランクの人間が立つ位置をご丁寧にも目印として定めた石が据え付けられている。というわけで、臣下は太和殿の中にすら入れない。ましてや皇帝の顔など見るべくもないのだ。全近代の帝王とは「見えない権力」だったと言ってよい。

太和殿にもこれでもかというくらいに龍が載っている。瓦も皇帝の色である黄色。一層目と二層目の間には文様があしらわれていたり、漢文が書かれていたりする。

 さて、太和殿の裏から出ると、皇帝が政務を執った宮殿も、生活空間だった宮殿も見えない。少し先に塀のようなものがあるだけで、その先には何もないのだ。つまり、主な宮殿のほとんどが失われているのである。

 フエ祭りのためか、いつもあるのか分からないが、いわゆる玉璽の大きなレプリカがある。「皇帝之宝」とある。

その左右には、右廡、左廡が建っている。これらはそれぞれ武官と文官の詰め所だったという。午門でも入り口がそれぞれ別になっていたように、この詰め所も別になっているのだ。武官と文官はほとんど別の世界に暮らしていたと言ってもいいだろう。ちなみに現在では内部は展示館や、当時の服装の体験館などになっている。クィンさんは中まで案内しなかった。

それにしても「フエ祭り」の準備のためか、かなり散らかっていた。日本の観光地ではこのような「舞台裏」のような光景は見せないものだが、この大雑把さがベトナムらしくてかえって良かった。

その先は、塀だけが残っている。この先に行ってみると…。

芝生に覆われた広場…ではない。かつては王宮の中核部分である紫禁城がここに建っていたのだが、今ではことごとく失われてしまっている。この広大な場所に、皇帝が政務を執った宮殿、皇帝の私的な宮殿などが建っていたのだ。

これを見てほしい。このあたりの壁に残る弾痕。ベトナム戦争のそれだ。痛々しい。これについては整備せず、このまま「史跡」として遺してほしい。

ただ、荒廃させたきりにしておいているわけではなく、少しずつ整備、復興が進んでいる。上の宮殿は作業中だ。

94年に発行されたフエの王宮を紹介する本を見てみると、王宮跡は一面雑草に覆われ、殿宇も例外なくツタなどの草がからまっているのが分かる。また、現在より宮殿内は「スカスカ」で殿宇の数も少なかったことが分かる。15年の間にかなりの数の失われた殿宇の修復作業が行われたことが分かる。

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