柳川・長崎巡覧 2006年2月25〜26日

 
次は観音堂。唐人屋敷跡の南東部に位置する。石のアーチ門。

 
堂内の祭壇にはまたもや猫が…! 唐人屋敷跡の各お堂には人が常駐しているわけではないから、猫たちにとっては絶好の昼寝の場所なんだろうな。


中国風味の千手観音と、その隣にマリア風味の観音菩薩。右の金太郎風味の童子はよく分からず。

 
ディティール。チャイナ顔。千手観音の下では、獅子が謎の雲をはきだしていた。


祭壇の奥に隠れるように安置されていた謎の像。ずいぶんと年季を感じさせる。

 
ここにも関帝。ここの従者も黒人。関帝は何を読んでいるのかなぁと思ったら、ただの線だったよ!


観音堂の外では梅が咲いていた。

 
次は福建会館。唐人屋敷跡の中央に位置する。同郷の人たちで組織した互助機構の会館。日本でいえば県人会の会館。屋根にプチ五重塔が建っていた。

内部の番人屋跡にはさまざまな展示品が。ここで興味深いものを紹介していこう。


当時の「唐人屋敷」は、このような区画の中に設けられていたんだよ、という説明。一般の日本人とは接触できないように囲い込んでいたようだ。

 
こちらの船(清国船?)の舳先にも野獣(?)の絵。

 
輸入品あらための風景。やっぱり清人は弁髪してます。このキョンシーのような服を着ているということは、清の支配者層である満洲人か。さすがに畳の上では靴を脱いでるね。

ちなみに、どうしてキョンシーがこの服を着ているのかだが、被支配者層である漢人(シナ人)がこの服を着ることは許されなかった。死んでからやっと着ることができた、というわけ。

さて、彼らの視線の先にあるのは様々な輸入品。象牙やサイの牙、絹織物(?)らしきものは確認できる。象牙とサイの牙の間にあるものは何だろう…。漢方薬の材料、あるいは食材だろうか?

残念ながら人参は描かれていなかった。人参(もちろん薬用)は、満洲政権の重要な輸出品になっていて、その採取権や販売権は皇族が握っていた。それらの権利の差が彼らの実力差にも影響を及ぼしていた。日本にも入っていたと思うんだけど、この絵には描かれてなかったね…。

さむらい(役人)たちは何を思ってたんだろう。「あれ欲しいけど俺の給料じゃ無理なんだよなぁ…」なんて考えてたのかな。


わりとリラックスしている清人たち。一人はアタマを手でおさえてるけど、どうしたんだろう。何か失敗でもして「アイヤー」なんて言ってるんだろうか。あぐらのような座り方をしている。片足の膝を立てて座る朝鮮式とは違っている。これが満洲式なのだろうか。どうでもいいけど、絵のタッチが少々植田まさし風だね。

しかしね、こういう絵を見るたびにいつも思うのが、上のようなどうでもいいようなものもちゃんと描いてくれているんだなぁ、ということ。そもそもこの絵は、庶民が楽しみのために描いたものではない。庶民はこういう場面に居合わせることはなかった。いわば「政府公式」の絵だったわけで、余計なものを描く必要は無かったはず。とすれば、逆に言えば描かれているものは全て描く必要があったもの、ということ。さらに言えば、実際に見られたこと、ということになる。文章による記録では、本編に関係するものしか描写されないが、絵画による記録では、視野にあるものは全て記録されるため、意外な情報が盛り込まれているのだ。

 
懸造りの舞台上では京劇を開催中。注目してほしいのは、遠くからそれを見つめる日本人。興味津々だったんだね。言っていることは分からなかっただろうけど、観ていて面白かったんだろうな。左の人のポーズは今の日本人もするよね。

 
お祭り。中央の赤いお堂は、先ほど観てきた土神堂。縁日なのかな? マンガみたいな楽器を演奏している。

 
役人のさむらいと清人が一緒になってお祭りを観ている。彼らはきっと楽しみを共有していたはずだ。顔が赤いのは酒を飲んでいるから? 笑っているね。


お気づきになりました? 上の風景の中に猪らしき動物が描かれていることを。イノブタかもしれない。豚を人家のそばで放し飼いにするスタイルは大陸的。日本には無かった筈。こういう風習も持ち込んで生活していたんだね。普通に豚が往来をうろうろしているのは面白いな。

 


長崎で執り行われた歌舞伎? 上の二階席から観ているのは、左からオランダ人、日本人(役人)、そして清人。非常にインターナショナル。また、楽器の演奏を担っている覆面の人たちは、おそらく被差別者たち。観客には女性もいる。


町人クラスの人たちも観客に混じっている。傘の下に居るのは僧侶。そして右上のほうには子供もいる。色んな人々が同じ場所に居合わせ、同じものを観ている。


これは砂浜の風景。右の方で燃えているのは船。清人たちが楽器を演奏していたり、呑気に見物している人たちが居るということはおそらくこれもお祭りなのだろう。古くなった船を処分する時に執り行われたものなのかもしれない。

刀を下げたさむらいも、町人も、杖をついた老人も、無邪気な子供たちもいる。みんな興味津々だ。


何を描いたものなのかは知らないが、大勢の人の視線が右の方へ集まっているということは、何かが執り行われているのかもしれない。ただし、注目すべきは桶に立ち小便をしている人まで描き、さらにそれを上から覗いている人も描いているということ。細かすぎる。

 
こちらは清人の接待風景。遊女たちが相手をしている。メガネをしている清人がいる。長い箸を持ち、レンゲが置いてあって、皿に盛った料理を大勢でつついて食べていることから、中華料理が供されているようだ。お茶の入ったポットを持っている人も見えるね。右下の遊女も一緒になって中華料理を箸でつついてるね。

 
これは清人が日本人商人から買い物をしている風景。出入りする清人は入り口でボディーチェックを受けていたようだ。余計なものを日本人と取引されると困るからなのかな。

 
肉を切り売りしている。何の肉かな。鶏? 後では野良犬がうろうろしているね。右は豆腐だね。

 
かごに入れた野鳥(おそらく鴨)のショッピング中。右は大根などの野菜だね。みんな楽しそうに買い物してますな。

日本人商人と清人とは一体どんな言語を使ってコミュニケーションしていたんだろう。この絵画からは読み取れないが、おそらくボディーランゲージを使っていたんだろうな。あるいは数字など基本的な言葉は相手の言語を理解していたのかも。

ところで、長崎の開港以後に関する展示・企画などはよく見かけるので、いくらでも勉強できるのだが、開港以前の長崎はどうだったのか? となるとさっぱりである。さるく博のコースにも設定されていない。ということは、現在、開港以前の長崎を知る手がかりが失われているということだろう。開港の前後で長崎は全く違ったものになったということかもしれない。長崎は開港以後に誕生したのだ。


天后堂も附属していた。中は他とあまり代わり映えしなかった。


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