雍州秋景 2007年11月3日〜4日

芬陀院

芬陀院は、天得院の斜向かいにある。

 
芬陀院は雪舟が設計したといわれる庭園があることから、雪舟寺とも言われる。ただし、現在見られるのは、重森三玲によって復元されたものだ。庫裡は典型的な臨済宗のそれだが、玄関の破風がかっこいい。


これはどうだろう。やってくれますなぁ。

芬陀院には受付がなく、拝観料を置いていくシステム。おつりが要る時のみ呼び出すようだ。


手水鉢。いいなぁ。


これが雪舟が設計したといわれる庭園。鶴亀がモチーフになっているらしい。ということは、奥の真ん中のドルメンらしきものが鶴、その奥が亀だろうか。

ドルメンも十分面白いのだが、やはり白砂と苔のコントラストが好きだ。


庭園も良かったのだが、私は方丈内の画にも心惹かれた。仏像は無く、おそらく仏画を本尊としているようだった。釈迦三尊の画像だ。

 
私はこんなに気持ちの悪い普賢菩薩を見たことがない。優等生としては絶対に描かないぞ、というのが伝わってくる。はっきりいって不良だ。反骨的な態度をびんびん感じる。

まず、経典を斜めから読んでいる。不思議な読み方だ。そしてそれを持つ手の爪! まるで悪魔じゃないか! さらに、彼の取る姿勢は、半跏といって正式な座り方なのだが、しかしそれはあくまで女性信者にとっての正式な座り方だ。すなわちこの普賢菩薩は「かぶきもの」なのだ。髪もまとめずに垂らしている。男なのか女なのか、子供なのか大人なのかよく分からず、それらの境界にいつづけるのは、いわゆる「神」的存在。中国の神仙思想とも繋がる。それらの差異を無効にしてしまう力を具現しているのだろう。そしてそれが禅の境地なのだ。

彼の乗っている象も不思議なものだ。奇妙ににやついているし、人間のような目と眉が描かれている。まるで仙人のような表情。象の本来の目の付き方ではない(象は顔の前面に目が付いておらず、立体視ができないはずである)。耳にはピアスまでしている。耳の先はぼろぼろだ。それにありえない爪と歯。まともに象を観察することができなかった時代の人によるのかもしれないが、それにしてもこのデフォルメは大胆過ぎる。しかし何より不思議なのは、このあり得ない動物を以て、どういうわけか我々が象だと認識できるそのことにある。

つまり、画というのは、人に伝えるために、必ずしも本物そっくりに描く必要はないということだ。

 
この文殊菩薩も十分不良だ。髪をまとめずにそのまま垂らしている。やっぱり悪魔の爪を持っている。そして男女と老若の差異もない。対になっている普賢菩薩もそうだが、悪魔的にもかかわらず、こいつらには戦う意欲がまるでないのだ。文殊菩薩は剣を持っているはずなのだが、こいつには無い。全ての対立を無化してしまう力を、こいつらは持っているのだ。

乗っている獅子も、獅子じゃない。異常に鼻がでかく、牙がおかしな場所から生えているのだ。爪も三本しかないし。これをネコ科の動物と誰が思うか。しかしそれでも我々はやっぱりこれを獅子と思ってしまうのだ。

動物の感覚が人間に比べて異常に鋭いのは、彼らが発達しているわけではない。彼らには言葉が無いからだ。人間には言葉があるため、感覚した現象の持つ個別の差異を切り捨てて、グルーピングすることができる。たとえば、一人として同じ人はいないはずなのに、それを「人」としてひとまとめすることができる。なぜなら言葉は世界の切り取り方だからだ。つまり、言葉によって、感覚の「節約」をしている。人間はよけいな情報をカットして日々を過ごしているのだ。そうでなければやっていけないからだ。

しかし動物はそれをしない。言葉がないからだ。世界をそのまま受け取る。だから感覚が鋭敏なのだ。鋭敏ということは、差異を無視しないということである。差異を無視しないということは、「それ」を「それ」として受け取るということだ。逆説的だが、差異をカットしないことで、物事に差を設けず、あるがままを受け取ることができるのだ。

差別が生まれるのは、恣意的なグルーピングが前提としてあるからだ。その無根拠な前提をうち捨てよ、というのが大乗仏教の真骨頂、すなわち般若だった。

だから、これらの仏画が示すように、何をどう書いたって構わないということなのだ。


それでは、本尊を。これも十分に奇妙だ。まずはっきりと外に見せることで効力を発揮するはずの引相が、衣の中に入っていて分からない。結んでいるのか結んでいないのか、あるいは見せる気があるのか無いのか伝わらない。重要なものは隠すものだ、ということだろうか。あるいは、物事の有無など本質的ではない、そんなことに現を抜かすなということだろうか。

 
襖絵も充実していた。左の人物は滝にて耳を洗っている。右の人物は牛を連れている。これはどういうことか。何も説明が無かったため、この意図を読み取ることはできなかった。ただ、滝の水で耳を洗っている様をわざわざ描くことには、必ず意味があるのだと思っていた。そして帰宅してだいぶ経ったある日、偶然この画が何を描いているのかを知った。

まず、滝の水で耳を洗っているのは、許由といい、堯という帝王の時代の隠者、ハーミットだ。まず堯が伝説的存在なので、許由も伝説上の人物でしかないのだが、彼の人格を知った堯が、彼に譲位しようとするが、許由はこれを断る。まぁ、断らなければ隠者ではない。その後、汚らわしいことを聴いたということで彼は滝の水で耳を洗ったのだ。それをこの画は示している。

そして、牛を連れているのは許由と同様の隠者である巣父という人物だが、牛に水を飲ませようとしたが、許由の話を聞いて、そんな汚い水を飲ませるわけにはいかないと、立ち去ったのだ。


これも題材があるのだろうか…。老人の陰に子供が隠れようとしているのがかわいい。何をおそれているのだろう。二人は何を見つめているのだろう。これも「共視」だ。心なしか笑っているような老人の余裕ある表情と、不安で威嚇しているような子供の表情が対照的だ。

 
山羊を連れる農夫。山羊がかわいい。鳴いているのだろうか。

 
老人と子供。翁と童は、どちらも「人間」ではない存在としてしばしば捉えられる。彼らは神仙なのだ。

人間は、動物と比べて無力な時期が長い。しかしそれは言葉を習得するためなのだ。言葉を知っているのが人間だとするなら、言葉を忘れたもの、言葉を知らないものは人間ではない。子供は人間ではないのだ。世界をそのまま感覚する力を持っている。

赤ん坊の睡眠時間が長いのは、世界からの情報を全てそのまま受け取っているからだ。言葉によって情報を「節約」することがないため、常時情報の洪水の中に身を浸している。そのため、情報の整理のため、長い睡眠を必要とする。

言葉を習得は、情報の切り捨てと引き替えなのだ。子供が哲学者なのはこういう理由なのだ。世界を根底から揺るがすような恐ろしい疑問をいつも抱えて生きているのだ。しかし悲しいかな、言葉の習得とともに、そういう能力を失ってしまう。だから神仙思想、禅思想では子供の境地を理想の境地としているのだ。


まるで生きているかのような魚板。グロテスクだ。


これも「共視」。おそらくつがいだろう。同じものを視て、彼らは一体となっている。


茶室前の庭園。

 
茶室「図南亭」。丸窓から覗く庭がいい。

 
最後に屏風絵を。あり得ないが、鳥たちが見つめ合っている。これも「共視」だ。可愛いじゃないか。


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