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フエの陵墓・王府探索 2016年2月18~23日

歴史博物館

Bảo tàng Lịch sử

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歴史博物館

16:13,歴史博物館(2 Nguyen Binh Khiem, Dist1, Ho Chi Minh City)着。福海寺から1kmほどしか離れていないが,35℃の暑さの中歩くのは大変なのでタクシーを使った。今のところベトナムには地下鉄はないし(ただし着工済み),バスは時刻表がなく路線図が頭に入っていない旅行者には使いにくい。1kmの移動で4.4万ドン(220円)で済んだので,積極的にタクシーを使うことをお勧めする。

六角堂のような外観が印象的な博物館。なんとカフェまである。入場料は1.5万ドン(75円)。

六角堂の中は博物館の中心およびエントランスになっており,ホーチミンの胸像が据えられている。


今後旅行のネタになるので,こういった文字・写真史料をおさえておく。まずは古代の史料・史跡。

左列上は光中帝の勅旨。

左列中は李南帝Lý Nam Đếの廟の扁額。李南帝は南朝の梁から独立した李賁Lý Bônの尊号で,国号を万春ヴァンスアンVạn Xuânとし,龍編Long Uyên(今のバクニン省)に首都を置いた。万春は544年に始まり,602年に隋によって滅ぼされた。

左列下は8世紀に活躍した都君Đô Quânと号した馮興フン・フンの陵Lăng Phùng Hưng。ハノイのバディン区Giảng Võ通り沿いにあるらしい。

右列上は徴姉妹ハイ・バー・チュンHai Bà Trưngの廟。ヴィンフック省のハーロイHạ Lôiにあるらしい。ハイ・バー・チュンは後漢に対して反乱を起こした徴側Trưng Trắc・徴弐Trưng Nhịの姉妹のこと。

右列中は婆趙バ・チウの陵Lăng Bà Triệu。タインホア省のホーロクHậu Lộcにあるらしい。婆趙は趙氏貞Triệu Thị Trinhという女性の尊称。Lady Trieuということか。趙氏貞は呉に対して反乱を指導した。

古代の歴史を紹介しつつ,民族の英雄としての反乱指導者を多く紹介することで,ベトナムの中国に対するナショナリズム発揚を企図しているのが分かる。


李朝が発令した遷都の詔。その樹立の翌年,華閭Hoa Lư(ホアルー,ニンビン省)から昇龍Thăng Long(タンロン,今のハノイ)へ遷都した。


モンゴルによるベトナム侵攻を紹介するコーナーに,モンゴル帝国の膨張を図で示したものがあった。その表記が非常に興味深いので,少し書きたい。

まずモンゴル高原に「Mông Cổ」(モンコ)とあるのは「モンゴル」で,漢語「蒙古」のベトナム語読み。そしてその下にある「Thành Cát Tư Hãn」(タンカトトゥハン)はチンギスハンで「成吉思汗」のベトナム語読み。つまりベトナム人に「チンギスハン」と言っても通じない。つまり日本でいうなら,チンギスハンを「成吉思汗」の音読みである「セイキツシカン」と呼ぶようなもの。ついでにロシア方面の「Bạt Đô」は2代目ハンのオゴデイの子バトbatuのことで「拔都」のベトナム語読み。

その一方で,今の中国の南方に「MONGKE」とあるのは,4代目のハンであるモンケmöngkeのこと。今のイランにある「HULEGU」はチンギスハンの孫でモンケやフビライの弟であるフレグhülegüのこと。モンケは漢語史料で「蒙哥」,フレグは「旭烈兀」と音訳されているが,それらのベトナム語読みではなくモンゴル語表記に準じている。表記が統一されていないのが面白い。

しかし,日本人もモンゴルのことを「蒙古」の音読みである「モウコ」と呼ぶケースがあるので,特別ベトナムだけがおかしいわけではない。学術的にはおおむね現地語に近い読みで呼ぶのが適切だと思うが,慣例となっていることを考え,混乱を避けるためにわざと統一しないという判断が優先される場合もある。

日本では長年フレグを「フラグ」,オゴデイを「オゴタイ」と呼んでいたが,学術の世界ではここ15年で現地語に準じた呼び方がすっかり支配的になった。一般向け書籍でもそれに随いつつある。

陳朝にかかわる史跡・史料の写真。


続いて,ここでチャンパに関する歴史を紹介している。チャンパはベトナム南部を19世紀まで支配していた集団で,今はベトナムを構成する少数民族の一つとなっている。地図で示されているように,ベトナム南部にはチャンパの遺跡が多く残存している。彼らはヒンドゥー教を信奉しており,その遺跡はアンコール遺跡と類似している。そのうち最もよく知られているのがミーソンで,ダナン・ホイアン旅行のハイライトとして紹介されていることが多い。


2年前(2014年)はダナンからタクシーでミーソンを訪問したが,今回のホイアン滞在中に近くのチャンパ遺跡を訪問する。残念ながらその遺跡はこの地図では紹介されていない。今後の旅行のためにメモをとる意味で写真を撮っておく。


ガネーシャ像と,その父親であるシヴァ。

聖牛ナンディと鳥人ガルーダ。多数のチャンパの彫像が展示されていた。ミーソンを訪問する場合,予習のためダナンへの経由地ホーチミンでまずこの博物館を,ダナンでチャム彫刻博物館を見学するとより理解が深まる思う。私の場合はミーソンが先で,ダナン・ホーチミンの順で見学したので全く逆になってしまった。ミーソン見学の前後にアンコール遺跡を訪問すると面白いと思う。

インド系文字で記されたチャム語の碑文。チャンパに文字史料が無いわけでは無い。


ベトナム中部の地方政権である西山朝の文書史料。この文書の書かれた景盛5年は1797年。


阮朝で使われていた印璽と鋳造された銅銭。中央の印璽は「皇帝尊親之宝」とある。中央の銅銭には「嗣徳通宝」とあり,嗣徳年間に鋳造された銅銭であることが分かる。

阮朝の写真と皇帝の服。

1994年にホーチミン市のソム・カイXóm Cảiで見つかった女性のミイラとのこと。貴族階級で60歳ほど,身長は152cmで名前はTrần Thị Hiếu。漢字では陳氏孝か。碑文には漢字で己巳年とあったようで,1869年ではないかと推定されていた。

16:40,ミュージアムショップで水を購入して出る。

隣の動物園の入り口。時間的に中には入れないが,外観だけ撮影した。動物園の前で客をおろしたタクシーを捕まえて移動。今度はVINASUNタクシーではなく緑のマイリンMai Linhタクシー。信頼されているタクシー会社で,ベトナム全土に展開している。


ホーチミン市を流れるサイゴン川。ほとりにはなぜか大砲が並べられている。6年前に初めてベトナムに来たとき,サイゴン川沿いのホテルに宿泊した。右のチャンフンダオ像も懐かしい。

2010年2012年にも利用した書店FAHASAグエンフエ通り店で,地図と阮朝の歴史の本を探し購入した。

もう17時を過ぎている。少し早いが夕食を摂ろう。

歩いて,17:15。BLACK CAT(13 Phan Van Dat, District 1, HCMC)というカフェ。こちらはハンバーガーをメインとする西洋人向けのお店。先客は日本人だった。なぜかチョウザメがいる。

とりあえずソフトシェルクラブのフランスパンサンドを注文。日本で想像するフランスパンは固めだが,ベトナムのフランスパンはサクサクで容易にちぎれる。非常にうまい。175,000ドン(1,000円)はベトナムではかなり高い食事だが,食べる価値ありだと思う。


17:45。店を出てタクシーを捕まえ空港へ。滞在時間は2時間半程度で短く,当初行こうとしていた戦争証跡博物館には行けなかったが非常に満足だ。食事が美味い。夕食後,ファニーカフェというところでコーヒーサンデーを食べるつもりだったが,ベトナムでしか食べられないものでもないので,次回に送った。ドライバーに国内線ターミナルに行ってもらうよう,domesticと伝えていたが,荷物を預けていたのは国際ターミナルであったことを思い出し,internationalと伝え直した。

既にラッシュの時間となり,渋滞が激しい。ホーチミンは暑くて人が多くて賑やか。


ホーチミンのモスクを発見。


永厳寺の隣のビルにはこんな壁画があるのを今初めて知った。すごいな。


18:20頃空港着。やはり着いた時よりも時間はかかった。ドライバーは念を押すかのようにinternational?と訊いてきた。ちゃんとしているなぁ。11.2万ドンだった。預け荷物を受け取り,チェックインカウンターへ。

空港内の看板。旧正月,サルが餅を焼いていた。日本で見てもあまり違和感のない看板だな。


18:43にゲート前ロビー到着。19時に搭乗開始となるので,時間的にはちょうどいいか。国内線となるので,当たり前だがベトナム人が多い。他は西洋人がちらほら。フランス人が多いように思う。日本人はいないようだ。機材はやはり沖付けなので車に乗車。今回の旅では酔い止めでのどが渇いたり,体がぐったりして行動不能になるのを避けるため,1時間ほどの国内線移動の場合には服用しなかったが,幸い酔うことはなかった。国際線とものどの渇きはなかった。


飛行機に乗ると夜景が気になる。左は20:10,離陸して30分後のあたり。真っ直ぐ伸びる道はなんだろうか。車のライトではなく,街灯が光っているのだろう。右は21:00,まもなくダナン空港に着陸するあたり。車などの往来は無い。綺麗に整備された新興住宅街だろうか。

21:05に着陸。ダナン空港に到着。ここでも沖付けとなり,車に乗車した。ホーチミンとは違ってダナンは涼しかった。20℃にも達していないんじゃないか。長袖でちょうどよい。


ホテルに迎えの車を依頼していたが,到着口には自分の名前を掲げたドライバーがいない。不安に思ってホテルにメールをし,その上で電話をしようとしたところで自分の名前を掲げている人を見つけたので声をかけた。

今来たばかりなのか,一人の西洋人とともに来ていたので見逃していたのか,よく分からないが,ホテル名を訊くと今夜宿泊予定のホテル名を告げたのでひとまずは安心した。それを察したのか,ドライバーは今腰を痛めていて,荷物の上げ下ろしができないため,友達を連れてきたんだ,と言った。西洋人が握手を求めてきたので応じた。彼はトムというらしい。ホテルまでは車で10分程度。

トムに出身を訊くとペンシルバニア出身とのこと。ベトナム語を勉強しているが,非常に難しいらしい。ダナンには100万人の人がいるが,東京はどうだ?と訊かれたので,驚かせるつもりで1000万人いるぞ,と答えたら大層驚いていた。念のためGoogle Mapsでトレースしていたらホテル方向に向かっていたので,ひとまず安心。

今夜宿泊するのが,このオレンジホテル(29 Hoang Dieu, Phuoc Ninh, Hai Chau, Da Nang)。既に21:30を過ぎていて非常に疲れている。眠い…。ウェルカムドリンクとしてホットティーを出してもらえた。涼しいので嬉しいサービス。だが最初から砂糖が入っていて甘い…。チェックインを済ませて部屋へ。


50ドル程度の宿だがかなり良い。ベッドの上にはタオルで作った象。窓無しの部屋だと若干安くなるが,監獄のようになり圧迫感があると思ったので窓有りの部屋とした。

フリーの水が2本あるのは他のホテルと同様だが,ここは瓶ビール(LARUE)2本もフリーでサービスされていた。早速冷蔵庫に入れて冷やす。アメニティは揃っているが,困ったのはバスローブがないこと。ベトナムに来て初めてかもしれない。

22:40頃。裏通りとはいえ往来はほとんどない。ベトナム第三の大都市の割りには寂しいと思ったが,ベトナムの環境音であるクラクションが聞こえないのはよろしい。


シャワーを浴びてすっきりしたところでビールを飲もうとしたが,1時間ほどの冷却ではしっかり冷えないか…。しかしビールが冷えるまで待つのはおかしいし,せっかくのビールを見逃す手もない。すぐ眠りたいのでぬるめのビールで我慢。機内食のときにだされたオツマミで小腹を満たして23時頃に就寝。


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