雍州春景 2007年3月30日〜4月1日

天龍寺エリアを攻略完了。次は宝筐院を予定している。天龍寺前のバス停をみてみるが、しばらくバスが来ないようなので、歩いてしまう。

少し歩くとよーじやカフェ。カフェといいつつ、よーじやの商品を扱う店も付随しているので、会社の人に頼まれていた買い物を済ませておく。ご大層な紙袋に入れてくれたが、この後これをぶらぶらさせながら歩くのもヘンなので、トートバッグに無理矢理入れてしまう。

JRの線路の手前にうどんやがあった。もう13時になるし、お腹もいい具合に減っているので入店してたぬきうどんでもいただこう。

前回の京都訪問で、既に「京都といえばたぬきうどん」という定式が成立している。京都で「たぬきうどん」といえば「あんかけうどん(「あんかけ」というか、つゆにとろみをつけている)」なのだ。これが猛烈にうまい。なぜ全国で流行らないのか不思議でならないくらいうまいのだ。

全体にとろみのついているつゆに、たっぷりのすり下ろしショウガと、刻んだ甘く炊いた揚げが乗っているのが、京都の「たぬき」。

前回の京都訪問では、みうらじゅんおすすめの本家田毎という店(新京極にある)で「たぬきそば」を食べて、すっかり虜になってしまった(実はみうらじゅんが勧めていたのは「たぬきうどん」で、勘違いしてそばのほうを食べてしまったが、それでも大変にうまかった)。

で、この店の「たぬきうどん」だが…。うーん。うまいのはうまいのだが、やはり田毎の「たぬき」にはかなわないかな。明日以降、近くに立ち寄ることがあれば、また田毎の「たぬき」を食べよう。滅多に京都に来れないんだから、あまり冒険するのはやめておこう。

宝筐院

さて、宝筐院は清涼寺の近くにある。目立たない入り口から、境内に入る。

入り口には、赤い大きな文字で「三脚の使用禁止」と書かれた看板があって、なんだか嫌な予感がする…。

受付には誰もおらず、ベルを鳴らすと、めんどくさそうに僧侶がやってきて拝観料を取っていった。400円。うーん…。

境内に入ると…。何もない。ここは紅葉の季節がシーズンであり、完全に今はオフシーズンとなってしまっている。ただ、先ほどの宝厳院は今の季節であっても、見応えがあったが、ここにはそんなものが全くない。木々に葉がついていないのは当たり前だが、地面には苔がないし、何より寺サイドの「哲学」というものを全く感じられないのだ。

先ほどの僧侶の投げやりな姿勢といい、かえって雰囲気を壊してしまっているやかましい看板といい、なんだかなぁ〜という印象。

こここそ、秋のみ公開とすればいいじゃないか。400円は高すぎる。何の哲学もない寺に入っても何も伝わってこない。そもそも「読解」するものが無い。

つまらなすぎる。オフシーズンは、よほどの日本史マニアでなければ入る意味がない。

とっととでよう。時間の無駄だ。

さて、気を取り直して次なる大覚寺に向かおう。既に歩き疲れているので、バスに頼ってしまう。少し歩いて、嵯峨釈迦堂前バス停で待つが、風が冷たくなり、雨も降り始めていてなかなか寒い。自販機でホットカフェオレを買ってじっとバスを待った。

やっと来たバスに乗ったのは、自分以外に一組の夫婦。バス停でカウントしてたった二つ先。

大覚寺

大覚寺は、バスの終点。本数は少なく、下手をするとかなり待たされるかもしれない。


大覚寺の拝観入り口。なんだか仁和寺の書院入り口に似ている。

ここ大覚寺も仁和寺と同様に、門跡寺院。もとは嵯峨天皇の離宮だった。嵯峨天皇の諱も、ここ嵯峨野に離宮を構えたことに由来するのだろう。そして、亀山天皇がここで院政を摂ったことにより、彼の血統が「大覚寺統」(のちに南朝の系統)と呼ばれることになる。また、南北朝の統合が図られたのもここ大覚寺においてである。

 
門跡寺院ということで、上画像のように、宸殿は蔀戸になっている。宸殿はそもそも天皇の御殿という意味で、まさしくこの寺が天皇家に縁を持っていることを表している。

内部は、仁和寺をはじめとする他の門跡寺院でもみられる典型的な書院造りとなっている。


宸殿から勅使門を眺める。勅使門の前の砂庭は、大海を表していて、宸殿・御影堂・五大堂の大覚寺の主たる堂宇がそれを囲んでいる。


また、門跡寺院に典型的な、宮廷を思わせる回廊が、各堂宇を結んでいる。


大覚寺の中心に位置する御影堂の内部。きらびやかな装飾が施され、天井にも細かく鮮やかな絵が描かれていた。真言宗の御影堂といえば、安置されているのは弘法大師空海である。


御影堂の東側から庭を眺める。右に写っているのは宸殿。御影堂は勅使門の正面にある。

 
五大堂。大覚寺の中核を成す部分の、東側の堂宇。そしてこれが大覚寺の本堂である。もともと勅使門の正面、すなわち現在の御影堂の場所にあり、まさに本堂として大覚寺の中枢にあったのだが、大正十四年、大正天皇即位式に使われた饗応殿がここに移築され、御影堂となった。一方、五大堂は今の位置に移築されることとなった。ということは、今の五大堂の場所には、もともと何も無かったのだろう。つまり、現在の伽藍配置は、たかだか数十年の歴史しか持っていない。

内部には、不動明王を中心とする五大明王が祀られているが、写経道場もかねている。なお、もともとあった五大明王像は宝物殿にあり、現在は30年前に新しく造られた像が安置されている。宝物殿の五大明王も観てみたいが、新五大明王が、それらのレプリカとするなら、あまり姿かたちは変わらないのかもしれない。

五大堂の東側には舞台のようなテラスがあり、その先に大沢池が広がっている。嵯峨天皇(?)が中国の洞庭湖を模して造ったということだが、洞庭湖(中国で二番目に大きい)とは比べものもならないほど小さい。ということは、見立てであろう。

嵯峨天皇は、この大沢池に映る月のほうを眺めていたと言われるが、ひょっとすると「見上げる」という動作を避けたのかもしれない。また、そのために造った池なのかもしれない。


御影堂の背後には、勅封心経殿が建っている。嵯峨天皇をはじめとする天皇の写経が奉納されているそうだが、現在のものは大正十四年に再建されたもの。なかなかセンスのいい建築。なお、再建された大正十四年は、饗応殿(現在の御影堂)の移築と同年であり、ひょっとすると、その際に勅封心経殿を移動せざるをえなくなって、再建されたのかもしれない。

 
大覚寺の最奥に建つ霊明殿。その名の通り天皇の霊廟。霊明殿に連絡する回廊は、途中から段々と高くなっており、先ほどの天龍寺や仁和寺など天皇の霊廟を擁する寺院と同様の扱いになっている。


玄関入ってすぐ背後に建つ正寝殿。十二部屋もあり、それぞれに桃山のバロック魂が注入されている。この間は特に名が付いていないが、障子戸には、渡辺始興による「野兎の図」。ウサギがモチーフになっている珍しいもの。すっかり虜になってしまった。


かなり気に入ったので、すべての絵を紹介しよう。とにかくいろんな種類の、いろんな姿のウサギを描いているのが特徴。

眠るウサギを描くこと自体珍しいが、ウサギが安心して眠る時、後ろに両足を広げることを知っているというマニアックさは、作者の渡辺始興の、ウサギに対する造詣の深さ、あるいは注意深く観察していたことを物語るものだ。

横を向くウサギ、正面を向くウサギ、上を見上げるウサギ。そしてこれだけウサギが密集していてもお互いを全く認知していない(あるいは全く共生・協力関係にない)ことも、ウサギの特徴である。ウサギにはやる気などない。そんなことまで渡辺は知っているのだ。


右の跳ねている白いウサギがかわいい。


このブロックのウサギは特にかわいい。障子戸の一番下の部分にウサギを描く、この発想もなかなか面白い。人間がこの障子戸の前に建つと、これらのウサギが人間を見上げているようになる。つまり、これらのウサギは、障子戸の一番下に描かれるべくして描かれたのだ。

その証拠に、背の低い草も一緒に描かれており、これらのウサギがどのような位置・場所にあるのかを明確に示している。


さらに、これらの絵は草やウサギどうしの前後関係を持っていることから、奥行きを持っていることを示すものでもある。そして上の画像のように、一方向だけに描かれているのではないので、この狭い間の中に、実際よりももっと広い空間をここに存立させようとしている絵なのだ。こんな部屋でごろごろできたら、さぞかし幸せだろうなぁ。

ウサギは地面を低く跳ねる動物であるから、障子戸の下の部分に描くモチーフとしては抜群だ。

これらの作品は、江戸時代の人間も、現代人と同様に動物に対して愛情を持ってまなざしていたことを示すものだと思う。こうしてみると、どんな時代でも、人間の考えることは同じだといえる。道具(手段)が違うだけで、本質(目的)はいつの時代だって変わらない。人間は、その登場から何の変化もしていない。


「野兎の図」が描かれた間の隣の間。なかなかゴージャスだが、右手にたけのこが一本にょきっと出ているのが、なんだか気が抜けていて良い。


玄関入ってすぐのところにあった、洋間。ミスマッチがなんだか格好いいね。


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