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多摩巡礼 2008年3月29日

山口観音(金乗院)

やまぐちかんのん

埼玉県所沢市上山口2203

西武球場前駅から徒歩5分

マピオン

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山口観音(金乗院)

越県して埼玉県へ。桜が見頃なのと、西武ドームでデーゲームが行われているせいか、道路と駐車場が混み混みで車を止めるのに少し難儀した。

金乗院、通称山口観音は狭山湖と多摩湖の間に挟まれた場所にある。多摩湖は正式名村山貯水池、狭山湖は正式名山口貯水池といい、東京都の飲料水を確保するためにつくられた人造湖だ。多摩湖は昭和2年、狭山湖は昭和9年竣工だから、大正時代までは山口観音の周りには広々とした裾野が広がっていたということだ。

山口観音は、なぜかけばけばしい中国風味のお堂が目立つ。

なぜか龍がこれらの堂宇を囲んでいて、さながら狛犬のようになっていた。一方は口の中で玉を転がしている。結ばれたおみくじがリボンのようで可愛い。

こちらの堂宇にはぽっくり地蔵堂とあった。「苦しまずに、迷惑をかけずにぽっくり死ねるように」という祈願をかける、ぽっくりさん信仰というのがある。

堂宇入り口前の香炉のデザインが面白かった。獅子の面が腹の部分に付いていたし、脚の先が猫脚になっていたし、付け根にも獅子のような怪獣の顔が付いていた。ここにも龍二体がからみついている。

こちらはどうやら布袋を祀っているようだ。水沢観音の輪蔵のようだったが、内部の厨子は残念ながら回らず。相当けばけばしい装飾がほどこされていて、屋根の上には塔が建っていた。

柱にや欄間など居たるところに装飾が。桃山様式なのか、中華風味なのかよく分からない。

横から見てみると山門のような感じがする。

ここはぽっくりさんと七福神信仰のエリアだった。つまりどちらも本来の仏教とは離れた民間信仰なのだった。このエリアが特に中華風味なのは、道教も現世利益を願う点で共通しているからだろうか。

各地の寺院に付随する、このような民間信仰装置は大体けばけばしいものだ。

これが山口観音の本堂。さっきとはうってかわって落ち着いた作りだ。

本堂内部にはたくさんの額が奉納されていた。左のだるま絵は、きっと意味のある文字列で書いたのだろう。しかしどうにも分からない。右は海をざぶざぶと進む馬。

「福聚福」、「福寿海無量」などと書かれた額が。ここは埼玉だが、海難除けの信仰があるのだろうか? 上の海を進む馬の絵は、何か関係があったのだろうか。ただし、海は「広大な」とか「深い」という意味もある。ダライ・ラマのダライとはモンゴル語で「海」を意味する。転じて、「深くて広い(徳を持つ)」という意味になり、チベット語で僧侶を意味するラマを修飾しているのだ。額には「無量」とあるから、それと同様の意味で使っているのかもしれない。

ちなみにここでも、「福聚」とか「福寿」とあるように、道教的な現世利益的祈願となっている。

右の画像は七福神を描いている。七福神は日本ならではの信仰であり、マハーカーラ、ヴァイシュラーヴァナ、サラスヴァティといったインドの神、布袋という中国の僧侶(弥勒菩薩の化身ということもある)、福禄寿、寿老人といった道教の神、恵比寿(夷、戎、胡)という日本の信仰がグループを成している、いいとこ取りのごった煮の民間信仰だ。

福禄寿と寿老人は同体ともいわれ、南極星が神格化したものだ。南斗星君は、北斗星君が死を司るのに対して、生を司る。この性格のために現世利益を祈願する民間信仰に取り入れられたのだろう。

中国の思想では「対」が好まれる。陰と陽はその代表例で、世界に起こるすべての現象に対してこの二元論を当てはめて考察しようとする。また、雅で流麗な漢文には対句表現がたくさん見られるものだ。それなのに、対になるはずの北斗星君が七福神というグループにチョイスされていないのは、現世利益の目的に適うものでないためだ。

ちなみに福禄寿は、その名前自体が示すように現世利益の象徴である。

さて、後で知ったところによると、山口観音には、算額が奉納されているという。この本堂に掲げられているのか、あるいはどこか他の場所に保管されているのかは分からず。

なんとマニ車。

ここ山口観音は、観音信仰、七福神信仰、道教趣味やチベット仏教など、いろんな信仰がごったになっている。

どれも民間信仰の類のものだ。手広くやっているのだ。

ただ、下にはこのマニ車を「ベル」と言っており、錯綜している。マニ車は決して鐘ではなく、日本でいえば輪蔵のようなものだ。誤伝になっている。

境内でみかけたノラ猫。かなり警戒心が強く、これ以上近づけない。左は動かなくなったと思ったところを撮ったのだが、体が震えていたので、トイレ中だった…。一番無防備な状態だったのだ。

さて、本堂裏にはおびただしい数の水子地蔵が。これも民間信仰。

水子地蔵群のさらに上を見ると、龍が境内をぐるりと囲んでいるのが分かる。人が通行できるように龍が身を浮かせている部分があり、そこから先ほどの布袋を祀った堂宇を眺めた。

上の左写真の上部には、何かの堂宇が。二匹の龍が向かいあっている。

その堂宇の中には南伝仏教の仏像らしきものが。チベット仏教でいうなら緑ターラーというような感じ。なんでだ。この堂宇から本堂を見下ろす。

その堂宇の先に進むと、山口観音のシンボルである(とおぼしき)八角五重塔がそびえていた。少なくともランドマークにはなるだろう。残念ながら内部の様子を伺うことはできなかった。

そのふもとには「仏国窟」というトンネルが。戒壇巡り、あるいは胎内くぐりと、四国八十八カ所・西国三十三カ所お砂踏みを兼ねた信仰装置だった。しつこいが、これも民間信仰だ。

ヤエザクラだろうか。濃いピンクがキレイだ。

五重塔から坂を下る。ここにもなぜか龍が。理由はよく分からないが、この階段、ちょっと凝っていて、右画像をみれば分かるようにまっすぐになっておらず、左右している。おそらく龍がうねる様子を表しているのではないかと思う。

ちなみに、龍が挟む階段の両側は段々になっており、「カメヤマローソク」的なベンチが並んでいたりする。スタジアムの観客席のようにはなっているが、特に見るべきものは存在しない。

階段を下りきったところ。先ほどの五重塔が見える。階段のふもとには灯籠。付け根には龍虎の彫り物が。

灯籠の下部分は六角になっており、それぞれの面に十二支が3Dで彫られていた。

こちらはソメイヨシノと、…右画像はよく分からない。でもキレイだ。桜は種類がありすぎてよく分からない…。

新田義貞が奉納したという白馬をかたどった像を祀る堂宇が。内部には馬が群を為している彫りものがあった。

どさくさにまぎれて仲良くやっているやつらもいる。右画像のはなかなかすごいが、馬がこんなことをするものだろうか。擬人化していないか。

山口観音の正門。千社札の上から赤く塗りつぶしてしまっている。

少し離れたところには閻魔堂。御簾の中に閻魔が。この閻魔は日本の「えんまさま」だ。座の正面には、なぜか三原色で描かれた卍が。

閻魔堂の外に掲げられている額。地蔵と観音だろうか。観音のほうは、動物が二足歩行して観音にすがりついている。おそらく畜生道に墜ちた者を表しているのだろう。火に包まれている者がいて、観音とは別の仏神にすがりついているように見える。赤い肌をしていて、裸足なのでおそらく天部だろうが、よく分からない。

地獄の獄卒や裁判官とおぼしきものたちが左側に描かれているが、おそらく柵の向こう側が地獄なのだろう。ただ、その境界に鳥居が建っているのが面白い。結局、地獄を怖れるというのも、民間レベルで各種の信仰が混淆してしまっているのだろう。

閻魔堂内部の地獄絵。鏡や天秤、釜ゆで、押しつぶし、すりつぶしなどはオーソドックスだが、深淵なる暗闇から龍が首を覗かせて地獄道に墜ちた者を食うというのは初めてみたかもしれない。

右画像の右下にいるのは奪衣婆だろう。三途の川のほとりでやってきた者の衣服を、その名の通り脱がせる役割を担っている。背後の木には、奪った衣服がかけられている。生前の悪業が重ければ重いほど、衣服も重くなり枝がしなるという。

ちなみに、キリスト教の地獄は責め苦を受け続けるばかりであるが、仏教の地獄は、絵に描かれているように救いが存在しているということである。決して、獄卒の鬼や閻魔などは、地蔵菩薩や観音菩薩と敵対しているわけではないのだ。獄卒や閻魔は、単なる刑務官や裁判官であるということ。つまり、ほとけのルールを踏まえ、それを破った者を罰したり、裁いたりしているだけなのだ。ほとけの要請によって存在しているのである。

敵対しているどころか、閻魔天の本地仏は地蔵菩薩とされており、つまりは罰も救いもどちらもほとけによるものである、ということを示している。

山口観音の鐘楼。なんと鐘の左右に、鐘衝き棒が設定されていた。

左側が、自動鐘衝き棒のほうで、拝観客はこれを使ってはいけない。自由に衝けるのは右のほうだ。

なぜか鳥のケージがあった。そういや吉野の寺でも孔雀を飼っていたな。左画像は、まんじまるさんに拠ればギンケイだという。右はおなじみ孔雀。

孔雀と鶏が一緒に飼われていてびっくりする。

まんじまるさんの指摘だが、このケージ内にはメスの孔雀がなく、オスが羽根を広げる機会がない。

さて、この山口観音を珍寺と扱う方もいる。しかし、これまで見てきたように、珍な要素というのはすべて民間信仰を担う宗教装置であった。現世利益を祈願する民間信仰の装置すべてを単純に「珍」という言葉で済ませてしまうのはちょっと乱暴かと思う。

「なんだこれ?」という疑問は抱くべきものだが、そこで終わってはいけないだろう。重要なのは「なぜ斯くあるのか」ということのほうだ。それを考えることをさぼってしまっては、本質を看取することはできないだろう。

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