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越南漫遊記 2010年5月24~30日

ラ・トン

lá thông
94 minh mang st. hue
6:00-15:30,
16:00-22:00

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フエ到着

まもなくフエのフバイ空港。眼下には潟湖。左側は南シナ海だ。河口から海に運ばれた土砂が堆積し、それらが海を囲んで閉じてしまったのが潟湖だ。

写っている橋はチュオン・ハ橋かと思う。

13:26、フバイ空港着。ハノイのノイバイ空港に比べるとかなり小さく、周りは飛行機を出たらハノイとは段違いの暑さで、息苦しさを覚えるくらいだ。日差しもかなり強い。ここでもエアコンの一切効いていないバスで空港まで移動。

フバイ空港はかなり小さい地方空港だ。どう見ても勝手口にしか見えない出入り口が空港のexitになっている。

荷物受け取りの前にトイレへ。小便器の位置がやけに高くて驚いた。ベトナム人は日本人と同じくらいか、むしろ背の低い方かと思うのだが、なぜこんな位置にあるんだろう…。外国人は皆背が高い、ということなのだろうか? しかし、全ての人が用を足せるようにするならばむしろ低くすべきだと思うのだが…。

荷物を受け取り、空港を出るとフエを案内してくれるガイドさんが待っていた。今回も女性のガイドさんでクィンさんという。早速ドライバーの運転でフエへと向かった。

クィンさんのサインを後で見る機会がありquynhと書く。帰国後意味を調べたところルビー、あるいはアジサイだとか。

気温を訊いてみると37度らしい…。日本で見てきた天気予報では、フエやホイアンで雨になることを知っていたので雨のことを訊いてみたが、今は乾期なので降らないとか。ただしフエは今が一年の中で一番暑いらしいので、帽子をかぶることを勧められた。今日は日除けのない屋外の史跡ばかりを観て回るので余計に必須だと思った。なお、ベトナム中部はベトナム全土でも一番暑くなるらしい。

早速食事の場所まで移動。

フエではさすがにハノイのような雑踏はないし、バイクも少ない。フエはベトナムの中部にある。中部地方はどちらかと言えば田舎に属するが、フエはベトナム最後の王朝であるグエン朝の宮殿があった古い都であり、日本で言う京都のようなところだとクィンさんは言う。漢字では「順化」(トゥアン・ホア)と書き、「化」のベトナム読みが訛ったのが「フエ」。

道沿いにもたくさんの寺院などが建っている。ベトナムの京都といえどもやっぱりど派手だ。

墓の形は違えど、日本の田舎でも見られるような風景かもしれない。鉄塔が懐かしく感じる。

フエはかなりのどかなところ。牛が道ばたで放牧されていた。

のどかにも牛の親子が道を横断しようとしていた。

クィンさんには悪いが、ロアンさんの日本語には適わないと感じた。ロアンさんも少しカタコトではあるが、上手い方であることが分かった。

昼食の場所「ラ・トン」。「ラla」は葉、「トンthong」は松のことで、つまり「松葉」。なぜか日本語のパンフレットが置いてあり、日本食も提供している。というわけで日本の象徴としての「松葉」なのだろう。ただし、この店ではフエ料理を戴く。ちなみにこの店は「ミンマン通り」という、グエン朝二代皇帝の名が付いている。

ただでさえ暑いのだが、この店は外と中を隔てる壁がない。冷房がなく、扇風機すらあたっていないのでちょっと厳しい…。

まずは飲みものとして、ベトナムのビールとして有名な333を。「3」をベトナム語で「バー」というので「バー・バー・バー」と呼ぶ。このビールがベトナムで一番美味しかったかもしれない。奥さんはスイカジュース。

ベトナム中部に位置するフエの料理は、北部とも南部とも違う独特なものだという。

まずはブンボーフエ。フエの麺料理だとか。牛肉が乗っている米麺。きしめんのように平らなフォーの麺とは違って丸みがあってパスタのよう。「ブン」はビーフン、「ボー」は前述したように牛肉を意味するので、後ろから修飾していくベトナム語の特性からすれば「フエ風牛肉ビーフン」と訳すことができる。ガイドブックには辛みが加わっているとあったが、これはあっさりしていた。

イカのフリッターチリソース。

ぷるぷるの白い餅のようなものの上に甘すっぱ系のソースがかかっている。奥さんはこれを気に入っていた。

あとは蒸し魚、豚肉のチリソテー、空芯菜の炒め物。やっぱりここでもご飯が出た。特に豚肉が美味しくご飯が進んだ。空芯菜が美味しいのは当然。

最後にデザートとしてフルーツ。パイナップルとスイカだ。

ベトナムの食事はこれで四度目(朝食はのぞく)だがどれもおいしく、食べられないものは一つとして無かった。見た目が想像した味を裏切らない。ベトナム料理は日本人の舌に合うのだ。

食後は早速フエ観光へ。フエを都としたグエン朝にちなむ遺跡をめぐる。ここでグエン朝について説明しておきたい。

ベトナムは11世紀の初めに李朝がシナ王朝からの独立を初めて果たした。それまでは北属期と呼ばれ、明確に区別されている。そして19世紀の初めに成立したのがグエン朝だ。

グエン朝まではベトナム北部のタンロン(今のハノイ)に都が置かれていたのだが、グエン朝が成立すると、グエン朝の創始者であるグエン・フック・アインの一族が根拠としていた安南、つまりベトナム中部のフエを都とした。このとき、大規模な都造営工事が行われ、資材をタンロン城から根こそぎ持って行ったという。そのためタンロン城は今では跡としてしか存在しない。それまでタンロンと呼ばれていた旧都をハノイと改称させた。タンロンは「昇竜」の意味で吉祥ある地を意味する雅な名前だったが、ハノイは「河の内」の意味であり、単なる地理的な特色を指す名称に改めさせられ、貶められた。

グエン朝の成立当初、初代皇帝であるザロン帝は、清朝に対しては「南越」という国号を名乗ることを申し出たが、許されず「越南」を名乗らざるを得なかったという事情があった。というのも「南越」というのは、漢の時代に今の華南の沿岸部およびベトナム北部に成立した国の名前で、しばしば漢王朝と対抗したやっかいな存在だった。こういう理由で、清朝は「南越」という禍々しい名前を避けて「越南」を名乗らせたのだった。

ちなみに同じような例に「朝鮮」がある。朝鮮王朝ははじめ「和寧」という国号を名乗ることを明朝に伝えたのだが、「和寧」は明朝が目の敵にしていたモンゴルが首都とするカラコルムのことを指すので許さず、もう一つの候補として提出した「朝鮮」の方を名乗らせた。

話を元に戻すと、グエン朝は清朝に対しては「越南」を国号として名乗らざるを得なかったが、二代目のミンマン帝は、他の東南アジア諸国に対しては「大南」と号した。ここにシナ王朝への対抗意識が強く現れている。自らを「南朝」とし、シナ王朝を「北朝」としたのだ。つまりは観念レベル上では対等な関係を希求していたのである。

また、グエン朝は皇帝を自称した点で特異だ。皇帝は同一宇宙にただ一人しか存在しえない排他的存在であるので、シナ王朝の皇帝をさしおいて皇帝号を名乗ることは反逆を意味する。またグエン朝は皇帝号のほかにあまつさえ元号も制定しており、空間以外に時間さえも支配していたのである。

この点については、日本の天皇のありかたにもあてはまる。天皇という称号は、実は道教的観点でいえば皇帝よりも上の称号であり、神を意味する。その上、シナ王朝とは別の国号を定めていたが、外交の際には自前の国号は使わず、シナ王朝の国号も使わないという巧みなやり方ですり抜けていた。

グエン朝も同じように外交していた。清朝に送る書についてはグエン朝の年号ではなく、清朝の年号を使っていたのだった。つまり、清朝に対しては服属の意を示し朝貢しつつ、東南アジアの他の地域に対しては皇帝の顔で朝貢させていた。建前的なところで踏ん張るかと思えば、朝貢国としての利益はしっかりと得ておくという「周辺」としてのうまいやり方を心得ていたというところに、ベトナムの強かさ、ひいては人間臭さというのが見えてきて面白い。

「中華システム」を全てシナ王朝から調達し、自前で用意しないところも「経済的」だ。清朝に対しては「越南王」と称する一方、他の国々には「大南国皇帝」と称していた。つまり、清朝を世界の中心として認識する一方で、自身も小世界の中心として振る舞っていたというわけだ。

ただし、清朝は彼らが皇帝を戴き、独自の年号も使用していることは百も承知だったようだが、それを見て見ぬふりしていた。見透かしていたのに何も言わなかった清朝も強かと言えば強かだ。

なお、日本もシナ王朝に対しては朝貢国として振る舞い、利益を得て、内向きには中華として振る舞っていたわけで、この「やり方」というのは、やっぱりシナ王朝の「周辺」に位置する政体の常なる「かたち」なのかなと直感するのだ。

内田樹の『日本辺境論』では、日本はいつだって外国のスタンダードに倣えど、独自のスタンダードを生み出さなかった。それが「戦略」だった、と書いている。内田はそのやり方を日本独特としていますが、私は何も日本だけでなく、ベトナムや朝鮮のような「周辺」は、いつだってシナ王朝が作り出したスタンダードをそのままそっくり導入していたのだと思う。それだけに、シナ王朝というものが持っている「中心性」というのにあたらめて畏怖するわけだが。彼らはいつだってオリジナル「しか」生み出さなかった。それが凄いところだ。

フエの建造物には龍の彫り物や絵があちこちにあるそうだ。龍というのは皇帝のシンボルであり、特に5本の指の龍はシナ王朝の皇帝のみに許されていたもの。沖縄の首里城では龍の指が4本で描かれていて、シナ王朝の皇帝に遠慮しているのが分かる。朝鮮半島の宮殿での龍も4本。そこでグエン朝の龍の指は何本なのか、旅行出発前から楽しみにしていた。5本だったら面白いと思う。

ちなみに、皇帝の呼び名の「ザロン」や「ミンマン」は名前ではなく、皇帝在位時の年号のこと。グエン朝は、明朝や清朝と同様、一代の皇帝につき一つの年号を採用していて、死んだ皇帝を在位時の年号で呼んでいる。日本で言えば明治時代の天皇以降と同じで、昭和という元号の時代に在位していた天皇を昭和天皇と呼ぶのと一緒。

たとえば「ザロン(嘉隆)」は初代皇帝が在位中に使用された年号であり、皇帝の名前はグエン・フック・アイン(阮福映)である。普通この名前で呼ぶことは忌避されるので、「遠回し」にザロン帝と呼ぶ、ということになる。

ここでグエン朝の皇帝リストを。
1.ザロン(嘉隆)帝 1802-19
2.ミンマン(明命)帝 1819-40
3.ティエウチ(紹治)帝 1840-47
4.トゥドゥック(嗣徳)帝 1847-83
5.ズクドゥック(育徳)帝 1883
6.ヒエップホア(協和)帝 1883
7.キエンフック(建福)帝 1883-84
8.ハムギ(咸宜)帝 1884-85
9.ドンカイン(同慶)帝 1885-88
10.タインタイ(成泰)帝 1888-1907
11.ズイタン(維新)帝 1907-16
12.カイディン(啓定)帝 1916-25
13.バオダイ(保大)帝 1925-45

ただし、5代目の「育徳」だけは年号ではない。ズクドゥック帝は在位たった三日で廃位されたため、年号を定める暇すら無かった。そのため、彼が起居していた宮殿の名前「育徳」を便宜的に使用しているだけだ。いっぽう「協和」は年号として定められたものの、すぐに皇帝が廃位したため、実際には使用されなかった。

在位年を見るとわかるが、トゥドック帝の死後わずか6年間に6人もの皇帝が立つという有様は、グエン朝内部に混乱があったことを物語っている。グエン朝は始祖であるザロン帝がフランスの力を借りて開いた王朝だったため、常にフランスの圧力があり、歴代の皇帝はフランスの傀儡となりがちだった。フランスにとって扱いづらい皇帝はすぐに廃されたため誰も皇帝になりたがらず、無能な人物ばかりが皇帝に即位したらしい。

さて、昼食後はフエに点在する皇帝廟をめぐっていく。

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