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播州の古刹巡り 2008年5月3日〜5日

東福寺 開山堂・宝物展

かいざんどう・ほうもつてん

京都府京都市東山区本町15-778

東福寺駅、東福寺バス停から徒歩10分

マピオン

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東福寺 開山堂・宝物展

東福寺の開山堂など、東福寺に初めて来た人がまず行くところであるし、取り立てて何かが特別公開されているわけでもない。

実際、五年ほど前に初めて東福寺を訪問した際には、しっかり開山堂に来ていたのだが、その時には庭園を鑑賞するという趣味が無かったため、開山堂前の庭園がすっかり自分の記憶から抜けてしまっている。

そのため、今回再び開山堂を訪れ、庭園をしかと観てこようと思ったのだった。

しかし、眼というのは不思議なもので、視界に入っていても「見えていない」という現象が起こりうるのだ。興味が無ければ見えないのだ。

新緑のもみじが目に眩しい。左は無料ゾーンの臥雲橋、そして右はそこから見た通天橋。この通天橋を渡って開山堂へと向かうことになる。ちなみに、その奥の大きな建物は大方丈だ。

この左から有料ゾーン。その入り口にあるのが輪蔵。内部にはいつもの三人グループが。左手の童子が笑いすぎ。

有料ゾーンへ。開山堂までは屋根付きの回廊が続く。

回廊の左右も緑がキレイ。右画像は回廊に接続している、どこかの門。立派な彫り物だ。

通天橋から大方丈を眺める。先ほどから軽妙な尺八の音色が境内に響いていたのだが、なんと大方丈の裏に接続してるテラスの先で尺八を演奏している人が!(右画像)

東福寺の一塔頭である明暗寺は普化宗の流れを汲んでいる。その縁からなのだろうか。程なくして演奏が已んだが、もっと続けて欲しいと思った。貴重な体験をした。

通天橋の中心部には、付近を眺めるためのテラス部分がこしらえてある。今度は臥雲橋を眺めてみる。

開山堂は上の門をくぐったところにある。開山堂エリアは一つレベルが高いところにある。

開山堂エリアには、左手に普門院という方丈建築(左画像)、そして伝衣閣という二階の建築がある。実は開山堂は伝衣閣の裏手にあるらしい。

伝衣閣の内部(左画像)。上の額には「勧請聖一国師」とある。開山の僧侶円爾のことである。このフロアの真上に右画像の楼閣が乗っている。一階部分の天井を見れば分かるように、吹き抜けになっているのではなく、ちゃんと二層目には床があり、真に二階となっていることが分かる。それではどこから二階部分に上るのだろう…。

こちらは普門院。5年前に訪れた時には全く覚えがない堂宇だ。興味が無いと視界に入ってこないものなのだなぁ。普門院前はちょっとした砂庭になっていて、方形の模様が綺麗に付けられていた。

これが開山堂エリアの庭園。池泉回遊式庭園だろうか。手前の六角形の手水鉢がなかなか良かったので伝衣閣と一緒にフレームに収めてみた。

唐門。透かし彫りが見事だ。

今がまさに最盛期のツツジだ。

さて、この後、光明宝殿で特別展示を拝観することにした。

「日中文華交流 〜東福寺禅と中国文化展〜」という名の通り、大陸との文化交流をメインにした展示だった。

「宋拓與地図」は宋代に大陸で作成された地図。私は遊牧民の歴史を研究していたので、自然とゴビ砂漠以北の地勢に目がいってしまう。地図上にみえた「兀骨司」はたぶん「ウイグルUyigur」。現在の「新疆ウイグル自治区」のウイグル族とは、直接的な繋がりはない。現在のウイグル族はテュルク(トルコ)系の言語を話す農耕や商業を営む定住民のムスリムであり、過去のウイグルは仏教を奉じたテュルク系の言語を話す遊牧民である。ウイグル族は民族アイデンティティを過去のウイグルに求めただけで系統的な繋がりは一切ない。

ちなみに「テュルク系の言語」という言い方は、現在のトルコ語に近いという意味であって、構成人員が全てトルコ人という意味ではない。言語とは後天的に身に付くものであり、言語が民族を決めるわけでは決してない。ましてやウイグルは9部族の連合帯の遊牧集団であり、雑多な人種が混じっていたし、遊牧という経済形態上、様々な文化が混じり合うのは当然だった。近代以後に成立した「民族(nation)」という枠組みでは捉えることができないのである。実際、ウイグルとは民族の名ではなく、集団の名前であった。

「義楚六帖」という書には、「魔有三女菩提樹下来【女堯】放仏現種種姿態仏心不動入金剛定即変彼三女為老姿女人羞【女鬼】而去」とあった。どうやらゴータマ・シッダールタが菩提樹の下で悟りを開いてブッダとなる際に遭った誘惑のことを記しているらしい。読み下せば、「魔(マーラ)に三女有り。菩提樹の下に来たりて【女堯】は仏に放ちて種種の姿態を現すも、仏の心は不動にして金剛定に入る。即ち彼の三女は老いた姿と為り、羞して【女鬼】は而りて去く」。訳すると「マーラには三人の娘が居て、ブッダの座る菩提樹の下に来て、姿を様々に変化して誘惑したが、ブッダの心は動じず、金剛定(強固な瞑想)に入った。するとたちまちその三人の娘は老いた姿と変わり、恥じて行ってしまった。」となる。ブッダが悟りを得る際にマーラが仕掛ける誘惑を退いたハイライトが記されていたのだった。

なお、「魔」という漢字は、ブッダを誘惑したマーラを漢訳する際に作られたもので、これ一字でマーラのことを指す。まずマーラの「マ」という音を「麻」という字で写し、意味を「鬼」という字で写した。それらを合体させて新規に作られたのが「魔」という字なのである。

また、モンゴルから来た親書も展示されていた。漢文は改行位置が重要なので、忠実に写してみる。

趙良弼尺牘

大蒙古国皇帝差来国信使趙良弼欽奉

皇帝聖旨奉使

日本国請和於九月十九日到

(省略)

国王并

大将軍

(省略)

至元八年九月十五日

まず、趙良弼とは、北条時宗の執権時代にモンゴルの使いとして日本に来た人物だ。「大モンゴル国(イェケ・モンゴルン・ウルスyeke mongghol un ulus)のハーン(qaghan)が、国信使の趙良弼を差(つかわ)し来て、欽(つつし)んでハーンの聖旨(ジャルリクjarligh)を奉じせしむ。」

「元朝」ではなく「大モンゴル国(イェケ・モンゴルン・ウルス)」である。モンゴルは中国本土(チャイナ・プロパー)を領土の一部としたが、そのためにモンゴルが中国人になったわけではない。中国王朝がモンゴルを同化したのではなく、その逆で、ユーラシア大陸全体を支配下に置く広大なモンゴル帝国が、中国の領土を飲み込んだのだった。だから、この国書でもあくまで国号を「大モンゴル国」としているのである。

上のウイグルと同じように、モンゴルとは部族連合(連邦)の名前であり、民族の名のことではない。モンゴルに投降した漢人もモンゴルとなるのだ。ちょうど、星条旗に忠誠を誓えば、どんな人種であってもアメリカ人になれるのと同じ。

「聖旨」とはモンゴル語のジャルリクの漢語訳であって、「ハーンの仰せ」という意味。ハーンはユーラシア大陸全体を統治する特別な存在であり、彼の言葉には特別な権威付けがなされていた。それがジャルリクであり、他の皇族の発言は「ウゲuge(お言葉)」と表現され、厳密に書き分けがなされていた。

通説では、この国書はモンゴルが日本に対して「我が領土となれ」という不躾な内容であり、そのために北条時宗が怒り、無碍な対応をしたと伝えられているが、この国書の文面を見る限り、日本に対して一定の敬意を払った、かなり丁寧で親切な書き方になっていることが分かる。

なぜなら、「日本国」や「国王(=天皇)」、「大将軍」という言葉が現れるたびに、改行をして文の先頭に持ってきており、ハーン(=フビライ)のことを指す「皇帝」という言葉と同じ位置にしているからである。漢文には、敬意を払うべき存在を指す言葉が出てくるたびに文頭に持ってくるという作法がある。この事から、日本に対して一定の敬意を払っていることが分かるのである。

もし本当に当時の政府がこの国書を無礼だと感じたというのなら、全く教養が無かったと言わざるを得ない。無知によってフビライを激怒させ、元寇を招いたというなら、全くの失態だろう。

興味深いのは、モンゴルが日本には「国王(=天皇)」と「大将軍」の二つの求心力があることを知っていたことと、実際に権力に握っていた将軍(この場合執権だが)よりも天皇のほうを先に書いているというのは、日本に対してしっかり研究をしていたことを示すものだ。

なお、至元八年は1271年のことである。「至元」とは、フビライが中華世界を併呑した際に、初めて定めた中華風の年号である。「元に至る」と読み下すことができ、まさに新しい時代に入り、原初に至ったということを示すかなり観念的な年号である。

ちなみに中華世界を併呑すると、国号は「大元モンゴル国dai yuwan mongghol un ulus」となったが、大元とは「大いなる哉(かな)乾元」から取られており、「大」とは「元」という言葉の美称のことではなく、「大元」二字で国号なのだ。「大唐」とか「大明」などとは意味が違う。ちなみに「乾元」とは宇宙の生成原理を示しており、すなわちモンゴルが崇拝している天(テングリ)のことである。

「支那禅刹図式」には、輪蔵の仕組みが図解されていた。ちなみに支那とは「china」のことで、中国大陸を示す言葉である。中国は次々と国が変わったために、ひとくくりにして言う場合には「支那」という言葉を使うほかない。なぜなら「中国」という国号は、中華民国、ないし中華人民共和国のことを指し、それらの国の成立以前に成立した王朝のことを「中国」とは言えないからだ。なお、chinaとは、大陸で最初に統一的政権となった秦(chin)のことである。英語でチャイナ、ドイツ語でヒーナ。

「太平御覧」は多分地誌の類かと思う。巻七百八十二には、四夷(中華世界の東西南北に位置する「野蛮人」)部の三、東夷(東に位置する「野蛮人」)の三という部分で、倭、日本国、紵嶼人、蝦夷国が併記されていた。倭と日本国が別の国として扱われているのである。紵嶼人というのが何を指すのか分からないが、島嶼部に住む人びとだろうか。また、日本国とは別に蝦夷国の存在を認めているのも興味深い。当時はまだまだ東北以北に蝦夷の系統に連なる人びとが存在していたのだろう。彼らを日本国の一部としてではなく、ちゃんと別個の存在として扱っていることが興味深い。

他に像もあり、僧形の座像などがあった。誰かは不明であるが、「すがめ」になっていた。いわゆる斜視である。誰だろう…。

東福寺塔頭の同聚院の「じゅうまん不動明王」。「十」と「万」を縦に書き、一つの漢字として、「じゅうまん」と読ませている。山号は「十方山」。おそらく山号から来ているのだと思う。

東福寺駅ちかくの「ここはな」という名前のカフェ。二階部分にはトンボのオブジェ。窓にはかわいい詩が。

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